(零)

轟。

風が唸る。

百々。

潮騒が響く。

轟! 百々! 轟! 

絶海の孤島、杜束島で。

百々! 百々! 百々!

漆黒を溶かし込んだような夜闇を、深紅の篝火たちが赤々と染めあげている。

ここは、聖別された神の地。

そびえ立つ古木たちに囲まれた宮代。

八尋ばかりの広さの境内。

皆済沐浴で身を清めた八人の乙女たちが、八夜の間、丹念に掃き清めた神域で。

噖。

闇に煌めく二匹の銀蛇。

太刀が翻り、火花を散らす。

舞台の主の姿が浮かび上がる。

噖。噖。

同じ日、同じ刻に生を受けた二人の少女。

白装束に身を包み、一人は太刀を。もう一人は小太刀を振るう。

十六歳の誕生日の夜に。

その生の煌めきを、魂の息吹を、溢れ出す熱誠を、捧げるのだ。

少女の黒髪が、闇の中でさえなお艶やかに煌めいて見える髪が、翻る。

その太刀が追うのは

風に靡く紅茶色の髪。

煌めく紫水晶色の瞳。

もう一人の、御神娘。

噖!

これは剣の宴。

ただふたりで大神蛇の御為に、あい闘いて命を捧げ奉る。

九頭蛇はおろか、霊句子すらも立ち会うことは許されてはいない聖なる儀式。

『御霊鎮めの儀』。

噖!

二匹の銀蛇が荒々しく牙鳴りの調べを奏でる。

篝火の赤に映えるのは、飛び散る汗の珠。

噖!! 噖!!

宴の夜は、まだ始まったばかりなのだ。

(壱)

轟。轟。

何処なの……ここは?

百々。百々。

私は―――何を?

轟! 轟! 轟!

ああ―――煩い。

風の音が、まるで怪鳥の羽ばたきのように、鬱陶しく耳にまとわりつく。

違う。音だけではない。

光が、触感が、熱が、空気が……。

―――千華音を取り囲むもの全てが―――べとべととした異物になったかのようだ。

それが、煙のように視界を塞ぎ、耳を塞ぎ、皮膚に……いや、その記憶に、知覚に、魂にさえもこね上げた泥土のように粘つく。

まるで、とてつもなく分厚いものに自分と世界が遠く隔てられているかのような違和感がある。

たとえるなら。興味のない大道芸をガラス越しにぼんやりと眺めているかのように。

演者も千華音。

観客も千華音。

吹き抜ける風の寒さ。

一瞬、視界をよぎる炎の眩さ。

切り結ぶ刃の手応え。

踏みしめる砂地の感触。

何もかもが、確かにここにあるというのに。

薄く。遠く。儚い。

そのくせ、酷くおっくうで鬱陶しい。

考えも、想いも、何もかも上手く纏まらない。

―――たまらない。

その中でも、鍛えに鍛えたその聴覚は決して聞き逃すことはない。

ほんの微かな、殺気を込めた風切り音を。

身体が動き、太刀が踊る。

噖。

身に迫る小太刀をはじき返す。

ああ……あれは―――今目に止まったのは、日ノ宮の家紋。

御神娘の小太刀だ。

そうだ。

私は―――。

皇月の御神娘。

皇月千華音。

轟!

少しずつ、少しずつ、黒い水面に落とした一滴のミルクの起こす波紋のように、千華音の中に確かな千華音自身が広がっていく。

そう。これでいい。

千華音は、ゆっくりとあるべき己を反芻する。

濃密な闇と、古代の薫りを纏った緑。

荒れ狂う風。鳴り響く潮騒。

千華音の故郷、杜束島だ。

そう、ここは大蛇神のご神前。

御霊鎮めの儀を成すべき、聖地。

そして―――。

目の前に立つ少女を見る。

この娘は―――。

華奢だな―――と千華音は思う。

肩。二の腕。背中。

白装束越しでもはっきりと見て取れる。

懸命に息を整え、動悸を鎮めている。

身体の内も外も―――きっと精神も―――何もかもが柔らかく感じる。

まるで縁日の綿飴のようだ。

無論、千華音の身体とて、筋骨隆々というわけでは無い。むしろ細身の方ではある。

しかしその全身には十五年間蓄積したエネルギーが隅々まで行き渡っている。

瞬時にして静から動へ、柔から剛へと切り変わる。

強靱な鞭にも、鋼の杖にも、舞い踊る羽にも、変幻自在だ。

それでも少女の正眼に構えた小太刀の切っ先だけは、髪一筋の狂いもなく―――千華音の急所、のど元ヘと―――伸びている。

当たり前だ―――

この娘は、千華音の―――。

轟!

風が激しく唸る。

怪鳥の羽ばたきが、魔風となって千華音の心に絡み付き、打ち付け、纏りかけていた千華音自身を激しくかき乱す。

ああ、また始めから。

千華音は再び己自身をかき集め始める。

この子は―――。

「見ちゃったんだ」

「もう少し様子を見たかったんだけど。それじゃあ、仕方ないよね」

「始めよう」

ああ、そうだった。

都会の片隅。

古びた木造アパートの一室で、この娘が私に叩き付けた言葉。

裏切り―――の宣言。

それから。私は、どうしたんだろう?

轟! 轟! 轟!

無惨に砕け散った記憶の断片が踊る。

 そう……私は      太刀を。

悲鳴  九蛇卵たちが。

 外へ  走る。

そこへ御見留め役が

    は笑って

     超えて   島ヘ

   鉄鎖   潮の牢。

 

      御祓と   が    。

駄目……。

どうしてこうも考えが纏まってくれないのだろう?

轟!

百々!

なんとか…しないと。

内なる大渦の中に呑み込まれて拡散していく千華音自身の断片を懸命に、かき集め、寄せ集め、組み上げていく。

そう―――。

皇月千華音はここにいる。

神代の時代より護られし大蛇神の聖地に。

九蛇卵も。九頭蛇も。

大蛇神の口寄せ役である霊句子でさえも、立ち会うことは許されない。

相対するのは、

日之宮の御神娘―――ただひとり―――。

噖!

太刀が小太刀を払う。

媛子の小太刀が大きくはじかれる。

温い。

話にならないほど温い一撃だ。

再び小太刀が闇を裂いて千華音に迫る。

媛子の二の太刀だ。

遅い。

他の相手ならいざ知らず、千華音の目から見れば、お座敷芸に毛が生えたような代物でしかない。

皇月家の九蛇卵の方が、まだ歯ごたえがあるくらいだ。

日之宮の御神娘の手足のように。

遅く、か細く、温い……。

また小太刀が迫って来た。

右からの横薙ぎの一撃。

でも、その右は目くらまし。

本命は左からの二の太刀……そうでしょう?

ほら。

千華音の身が翻り、髪一筋の差で斬撃を躱す。

小太刀は尚も翻り、執拗に千華音を追う。

突く。

薙ぐ。

振り下ろす。

まだ続けるというの?

千華音にしてみれば、剣技を駆使するほどもない。

千華音の積み重ねてきた十六年に。

心と体にひたすらに叩き込んだ、闘いの性に。

ただ身を任せるだけでいい。

受け、捌き、避け。

どうするも自由自在だ。

これが闘いだろうか?

千華音の十五年間の集大成がこれなのか?

昔から幾千回、幾万回と心に描き続けて来た事なのか?

鍛えに鍛えた肉体、磨きに磨いた技術が飛び交い、燃え上がるような生の熱と凍てつくような死の寒が紙一重の間で交錯する。

それは狩人と荒野の獣の死闘。

きっと、この世界で御神娘だけにのみ味わうことを許された濃密な時間となるのだろう。

そう思っていた。

なのに…。

高揚感も、緊張感も、その果ての充実感も、

何一つ感じられない。

これでは、昼下がりの庭を散歩でもしているかのようなものだ。

千華音は心の中で目の前の少女に語りかける。

まるで姉弟子か、師範か何かのような気分で。

力を入れすぎよ。

それじゃあすぐに息が上がってしまう。

ほら、背中ががら空き。

本当につまらない。

退屈だ。

轟。

そして世界は千華音にべとべととまとわりつくのをやめようとはしない。

重い……。

なんて重い闇なのだろう。

千華音は退屈を紛らわすかのように、記憶の底を探る。

確か、これに似たようなことがあったような気がする。

あれ―――かしら?

あの雨の街で彷徨う千華音を取り巻いた闇……あれが……。

いいえ、違うわ。

あの時の闇は、『空』―――虚ろな哀しみだった。

虚空の中に放り出され、ぞっとするほどに冷え冷えとした風に吹かれながら、カサカサに乾いていく。

虚しくて、情けなくて、哀しかった。

それでも、あれは千華音の中から溢れ出すものだった。

その奥底には幾億の針に貫かれたような、切迫した痛みと焙られるような苦しみがあった。

今は違う。

哀しみも、痛みも、存在しない。

ただの現象。気怠くてつまらないもの。

何処までも遠い他人事。

それなのに―――。

噖!

咬み合う刃の響きが、千華音を思索の世界から引き戻す。

聞き慣れた音が、酷く耳障りに感じられる。

太刀が抗議の声をあげているかのように。

何時までこんなことを続けるのか。

相手をよく見ろ。

激しい息づかい。

乱れた剣先。

もう、足下が縺れ始めている。

―――そうね。

なにもかもバラバラのままで、千華音は考える。

どうしてこんなことを続けているのかしら?

今こそ使命を果たす時なのに?

身体が勝手に動いているの?

違う。

それならもっと。

轟!

ああ……また。

再び千華音自身が、攪拌されて、薄れて、とけ込んでいく。

本当に纏まらない。

どうして?

私は何をしているの?

何がしたいの?

【教えてあげる】

声が、聞こえる。

覚えのある声。

暗黒淵の底からわき上がって来る泡のように。静かに、はっきりと―――

私の中で、声が弾けた。

(弐)

そう、これは聞き覚えのある声だ。

一瞬の閃光のような。

怜悧な剃刀のような。

千華音の魂を何度となく抉り、穿ち、貫く声。

夜空を貫く三日月のような、容赦のない無慈悲な声。

抗い、せめぎ合ってきた。

今となっては懐かしさすら覚えるこの声。

千華音の中のもう一つの千華音、使命と闘志と経験が形となったもの。

【棘】だ。

重々しい闇の世界で、千華音は【棘】と対峙する。

―――教える……何を?

【あなたの本当にしたいこと】

―――本当にしたいこと?

【裁くの】

―――裁く?

【あなたを裏切ったのは誰?】

―――私を?

【欺いたのは誰?】

―――誰?

【あなたの純粋な気持ち。木漏れ日よりも温かく、そよ風よりも清々しく、どんな宝石よりも眩しい美しい宝物】

【生まれて初めて知った感情】

【自分自身より大切なものを、その腕で抱き締める喜び】

【そのためなら勝利も栄光も使命も投げ捨てても惜しくはない―――何者にも代え難い至福】

―――そう、そうよ。

【その気持ちに】

―――!!

【唾を吐きかけたのは誰? 足蹴にしたのは誰? 泥にまみれさせたのは誰? ぐちゃぐちゃに踏みにじったのは誰? 嘲笑ったのは誰?】

―――私は……。

【もう良いでしょう? 躊躇う理由は何処にも無いはずよ】

千華音に絡み付き、まとわりつく。その肌をはい回る氷の蛇のように。

まとわりつく迷いの泥を、こそぎ落としてく行く。

【大蛇神のため。御神娘の使命のため。杜束島の未来のため】

【ただするべきことを為す】

【あなたは鋼。あなたは刃。あなたは剣】

【棘】の言葉。

それはどんな嵐より、大渦より、地鳴りよりも、猛々しい咆吼。

雨の如く降り注ぐ幾億の槍のように。

千華音の心に突き立てられていく。

これに抗う術があるだろうか?

もう千華音を導く心の灯火は、何処にも見えない。

どんなに嵐が吹き荒れても、どんなに暗闇に包まれても、あんなに燦然と輝いていた恋の道標。

だから迷いながら、苦しみながら、それでも先に進めたのに。

どうして今は何処にも見えないのか。

いや、違う。

そんなものは始めから無かった。

偽りの蜃気楼。飴細工の御殿。

きらきら綺麗なだけの幻。

砂糖菓子―――。

『御見留め役』、近江和双磨は正しかった。

【棘】も。

杜束島の掟も。

いや―――日ノ宮の御神娘だって正しい。

『御霊鎮めの儀』の為の罠だったのだから。

敵を欺く。古来から続く立派な兵法だ。

裏切るもなにもない。

間違っていたのは皇月千華音。

私だけだ。

私だけが踊っていたのだ。

ここが夢の花園だと。

眩いまでに美しい舞台だと。

祝福された約束の場所なのだと。

一人で勝手にそう信じていた。

救いようの無いほど莫迦な小娘。

それだけのこと。

【ね、もう充分でしょう?】

【棘】の言葉が胸にしみ込む。

なんて温かいのだろう。

なんて力強く、頼もしく響くのだろう。

毒牙のように突き刺さっていた筈の【鋭い棘】が。

まるで名医の針のように、癒してくれる。

【今度はあなたの番】

【あなたは私】

【私はあなた】

【棘】が太刀を持つ千華音の掌を包んでくれる。

母のように。姉のように。師のように。

力を貸してくれる。

戻ってくる。

バラバラに飛び散っていた千華音が。

正しき形を取り戻していく。

それは、千華音自身のもう一本の腕であり、爪であり、牙なのだ。

もはやそれは【棘】などというものではではない。

遙かに重く、鋭利な、眩く煌めくもの。

【剣】だ。

「そう。私は」

千華音は呟く。

皇月千華音。大蛇神の御神娘。

【さあ、始めましょう】

私は【剣】……。

千華音は『剣』!

鞘走り、切り結び、火花を散らし、

ただ切り裂くもの。

千華音の瞳に闘気の輝きが閃く。

そして千華音が一閃した。

(三)

千華音の太刀が唸る。

噖!

受けようとした媛子の小太刀が大きく跳ね上がる。

「うっ!? くっ!?」

日ノ宮の御神娘が踏鞴(たたら)を踏んで下がる。

間髪入れず、千華音の太刀が疾り、追いすがる。

服が切り裂かれていく。

何処までも薄く。

柔肌に刻み込まれる一筋の赤。

うたかたの泡のように浮かんでは消える、美しかった思い出たち。

『ほんとはね、千華音ちゃんと一緒なら、何処だっていいんだよ』

一筋の前髪を斬り飛ばす。

媛子の台詞や思い出を思い返しながら、一太刀、また一太刀と浴びせていく。

『恋人つなぎ……って言うんだって。おかしいね』

髪を掴み、引き起こす。

『だって、もったいないよ。凄く綺麗なのに』

容赦なく砂地に叩き伏せる。

『クラスの女の子たちが、みんなやってるからアリなのかなって思って……』

よろよろと立ち上がってくるそれに、斬撃を浴びせる。

重く、速く、計算し抜いた一撃。

『千華音ちゃんの選んでいる方がずっとずっと楽しいから』

ああ…違う。

後ろに身を引いてかわしては駄目なのに。

それじゃあ、次の攻撃に対処できないわ。

追撃の肘を入れる。

「うぐっ!」

ね。

よろめく日ノ宮の御神娘の身体を受け止め、腕の中に確かにある重さと、白無垢越しに伝わってくるほんのりとした温もりを確かめる。

確かに、今、私の腕の中にある。

『私を殺してもいいよ。その代わりに』

あの日の午後のローカル線で、日溜まりの中で千華音が溺れ、酔いしれたもの。

雨の夜に、この胸で抱き留めたもの。

決して抱き締めてはいけなかったはずのもの。

脆くて苦くて甘い。

子兎のようにふうわりと。

小鳥のように囀(さえず)り。

子猫のようにすり寄ってきた。

何処までも何処まで愛おしく思えた少女。

『私の一番大切な人に』

その華奢な身体に。

千華音は渾身の膝蹴りを叩き込む。

「かはっ」

日ノ宮の御神娘の体がくの字に折れ、砂場に力なく倒れ伏す。

轟。

咳き込み身もだえて苦しむ様を千華音は傲然と見下ろしながら思う。

何故、何も感じないのだろうか? と…。

風に舞う木の葉のように。

幼児の振り回す玩具のように。

存分に自在に翻弄しているというのに。

何一つ、わき上がって来るものがない。

闘いの熱い興奮も。

復讐の快も感じない。

まるで御神前で舞いか何かを舞っているような、そんな落ち着いた静かな心持ち。

そんな中を吹き抜けるかのように、一瞬にして通り過ぎていく不可思議な感覚。

刹那の清々しさ…とでも言うのだろうか?

内なる【剣】の声が千華音を駆り立てる。

【痛いでしょうね】

【でも千華音(わたし)はもっともっと痛かった】

【千華音が微笑んでいたとき】

―――あの日、午後のウインドーショッピング。

【千華音が胸を高鳴らせていた時】

―――媛子と褥(しとね)を共にしたあの夜。

【千華音が悲しんでいた時】

―――雨の中、彷徨った夜の町で。

【千華音が一人で悩み、苦しんでいた時】

―――鳴らぬ携帯を前に膝を抱えていたあの部屋で。

【そうよ】

【剣】は歌い続ける。

【あの娘はせせら笑っていた】

【あんなあどけない顔をして】

【あんな無邪気な顔をしながら】

【あんなに涙を流しながら】

【あんなに肌をすり寄せてきながら】

―――そうだ。

だから私は、

戸惑って、

惹かれて、

酔ったのだ。

百も承知だった筈の御神娘の―――宿敵の罠に。

騙されない。全て計画なんだと自分に繰り返し言い聞かせながらも。

心の何処かで願ってしまったのだ。

これが真実であってほしいと。

この娘に酔いしれたいと。

【でもね…あの娘は、そうじゃなかった】

【心の底では】

【千華音を笑っていたのよ】

【あんなに無邪気にはしゃぎながら】

【まっすぐに澄んだ瞳で】

【子犬のようにべたべたまとわりついて】

【千華音を笑っていた】 

そう―――。

【あの娘がくれたのは】

【決して癒えない、心の傷】

【絶対に枯れること無い血の色の泉】

だからーーー

【あらあら、哀れっぽい顔ねえ】

【なけなしの力を振り絞って立ち上がって来たわ】

【可笑しいの。手加減するとでも思っているのかしらね?】

【お芝居は沢山】

噖!

日ノ宮の御神娘の身体が地に叩き伏せられる。

【好きなだけ、泣いてみるといいわ】

【腹の底で千華音を笑いながら】

それでも、日ノ宮の御神娘は諦めない。

噖!

太刀と太刀とが絡み合い、騒々しい鍔迫り合いの調べを奏でる。

相も変わらず稚拙な太刀筋。

気迫も技もまったく感じられない。

本当に退屈な…。

その瞬間。

小太刀の片手突きが千華音へと伸びていく。

今までにない速さの突きだ。

ああ―――。

これを狙っていたのね。

ワザと単調な攻めを繰り返して…隙を突こうと。

やっぱり、つまらない。

千華音は、小指の先ほどの僅かに身を捻って避ける。

その時、何かが千華音の肌を掠める。

ほんの微か、羽虫がとまったよりもなお軽い。常人ならまず自覚することのない感覚。

千華音の心に疑惑の波紋が広がる。

なに……?

小太刀の切っ先?

違う。

そんな風に、鋭く激しいものではない。

そんなもの、万が一にも、その影さえも千華音の肌に掠めさせはしない。

そうではなくて、もっと―――。

鮮やかに千華音の身体が翻る。

「!?」

体勢を崩した日ノ宮の御神娘の、その掌を千華音の掌が掴む。

貴族の舞踏会の如く、華やかに優雅に。

ああ―――あれだわ。

千華音は思い返す。

あれは、何時のことだったか。

あの娘が千華音にしてくれた、アロマとマッサージ。

芳香と、指先が奏でる快感の調べに包まれた。

舌足らずな声で説明してくれた。

人体の神秘とか、東洋医学とか。

そんな情報の断片を耳の中で転がしながら千華音は酔っていた。

懇々と湧き出し、溢れかえる至福に、心の底から酔いしれていられた。

魔法の指先が生み出す、このまま熔けて無くなってしまいたいと思うほどの多幸感。

いなくなる―――。

それも良いかもしれない…と心の何処かで微笑んだ。

あの刻の。

甘酸っぱい思い出を懐かしく胸の奥で転がしながら、千華音はその指を掴み、爪を立て絞り上げる。

切り裂くような痛々しい悲鳴が上がる。

【剣】は詠う。

【そうよ】

【大好きなあの娘はもう死んでしまった】

【眩しい微笑み】

【柔らかな肌の温もり】

【芳しい残り香】

【耳に甘く響く声】

【もうこの世の何処にもない】

【だからもっと】

【刻み込みなさい】

【穿ちなさい】

【抉りなさい】

【貫きなさい】

【もっと、もっと! もっと!!】

【血と痛と苦! 敗者の苦悶と絶望こそが大蛇神に捧げる最高の供物なのだから】

【剣】の詠に乗って千華音は舞い踊る。

静かに、涼やかに、煌びやかに。

打ち。裂き。刻み。

生きた『御神娘』を物言わぬ大蛇神の供物へと変えていく。

ああ―――。

こうやって片付けて行くんだ。 

美しい思い出たちを、確かに愛したあの日々を。

千にも万にも粉微塵に打ち砕いて。

拭って。

掃き出して。

地獄の淵にばらまいて。

何もかも消し去ってしまおう。

そして私は、

まっさらで清らかな皇月千華音になる。

夜空の月のような。

月はただ一人。

天高く、煌々と輝き続ける孤高の女王。

星々の従者も、夜と言う名の伴侶も、何もかもが飾り。

いつも一人。

だからこそ清く美しい。

噖!

闇に血の華が咲く。

(四)

小太刀がへし折れ、剣先が宙に舞う。

「ああっ!?」

そして、日之宮の御神娘が倒れ伏す。

白無垢と白い肌と紅茶色の髪は、汗と血と傷と砂にまみれ、見る影もない。

千華音は傲然と見下ろしながら思う。

もう良い。

もう終わりにしよう。

【剣】もそう言っている。

【まだ踊り足りないというの?】

【判るわ。何度八つ裂きにしたって気が済まないものね】

【でも、仕方ないの】

【どんなものにも終わりはあるから】

【皇月家のため。杜束島の未来のため。大蛇神さまの御為に】

【ただ為すべきことを為せばいい。そうでしょう?】

判っている。

そんなことは判っている。

日ノ宮の御神娘に、抗う理由などどこにもない。

もう刹那のすがすがしさなど感じない。

心には何も残ってはいない。

存在するのはただ『虚(うつろ)』。

草木一本生えぬ、無限に広がる虚無の荒野だ。

哀しみの涙も。

傷口から溢れ出す鮮血も。

乾いた砂地が全て吸い取って、暗黒淵(やみわだ)の底へと落としてしまった。

もう片付けは終わり。

草でも摘み取るように。

すみやかに終わらせよう。

それでいい。

なのに?

何故千華音の身体は動こうとしているのか?

何故、太刀を握る手に力がこもるのか。

理も情も大儀も、『剣』の側にある。

『剣』に身を任せればいい。

なのに。

轟! 轟! 轟!

百々! 百々! 百々!

虚無の荒野で何かが響いている。

声だ。

千華音の?

それとも―――目の前に這い蹲った、この……この娘の。

判らない。

どちらでもあり、どちらでもない。

ただ。

闇の大嵐の中、舞い踊る一本の綿毛のように儚く、睦言よりも小さく密やかに。

一つの『言葉』が響くのだ。

何故?

今さら……?

誰のために?

なんのために?

抗うのか?

その答えを……呟いているのだ。

それは……一体……?

【さあ!】

【剣】が叱咤の声を上げる。

【終わりになさい!】

【さあ!】

【今こそ決着の時!!】

【さあ!】

【為すべきことを、心のままに】

【さあ!!】

【さあ!!】

【さあ!!!】

【剣】の叫びが容赦なき嵐となって吹き荒れ、小さな小さな言葉をかき消してしまう。

轟!

千華音が剣を構える

切っ先が日ノ宮の御神娘の急所を捉える。

ふと、出会った時の言葉が千華音の脳裏をよぎる。

「私があなたを殺す」

千華音の問いは続く。

何故?

千華音の姿を映した紫水晶色の瞳が潤む。

瞳は鏡。

天照らす日輪の如く、一点の曇り無く万物を映し出す鏡

映るものは―――。

そうか。

ああ、そうだった。

やっと判った。

これが、言葉の意味……。

簡単なことだった。

千華音は、太刀を振り上げる。

渾身の力と、ありったけの心を込めて。

千華音の太刀が唸る。

そして―――。

鮮血の華が咲いた。

(五)

黒髪の少女の太刀は、白無垢をかすめ、黒い大地に突き立っている。

そしてその身体を、紅茶色の髪の少女の指が貫いている。

日之宮の御神娘の奥義。

必殺の指先が急所を捉えたのだ。

紫水晶色の瞳に映ったのは、頬を伝う一筋の輝き。

黒髪の少女の身体から、急速に力が抜けていく。

生の熱が消え、死の帷が全てを覆い尽くしていく。

黒髪の少女は思う。

これが死。

全ての終わり。

これでいい。

私は斬るべきものを斬った。

もう一人の私を。

皇月の『御神娘』を。

積み上げてきた十六年間を。

そして。

護るべきものを護った。

欺かれ、踏みにじられ、涙と痛みにまみれながら……。

全てを失ってしまった。

それでも、黒髪の少女には護りたいものが確かにあったのだ。

『私を殺していいよ』

始めて交わした言葉。

初めての約束。

護れなかったわ。

ごめんね―――。

でも、本当は始めから判っていたの。

私にはできないと―――。

黒髪の少女を包む死の帷が、みるみる重さと濃度を増していく。

月を覆い尽くす闇が広がっている。

まだ―――。

まだ倒れては駄目。

死の闇に呑み込まれる前に。

私にはまだやるべきことがある。

薄れていく力を振り絞って、黒髪の少女は微笑む。

光無き紺碧の瞳に、もう映るものはない。

それでも充分だった。

わたしがここにいて、

あなたがそこにいてさえくれれば。

ただ、それだけで。

それは現れず、響かず、形を為すこともなかった。ただ轟々と響く風に巻かれ、かき消された。

「愛してるわ。媛子」

万感の思いを込めた最後の告白。

その声を聞いたものは、誰もいなかった。

(六)

晴れやかな朝日に染まる暁の海。

「それ血の栄えの恵みなり……それすなわち余の神に非ず、余の徳に非ず、余の法に非ず。九層の九天におわします……」

女神祇官の唱える祝詞が朗々と響き渡る。

消して大きくも荒々しくもない……しかし潮騒の轟きも、潮風の唸りも圧する荘厳さに充ち満ちていていた戦慄となって。

潮騒が轟く杜束島の渚。

九人の乙女が、丸太のころに乗った八重垣の棺を押し出していく。

見守るのは、九蛇卵衆の担ぐ輿に乗った霊句子と女神祇官。

九頭蛇と九蛇卵の衆。

『御見留役』、近江和双磨。

そして、『日ノ宮家の御神娘』。

身体のあちこちに施された手当の跡が、『御霊鎮めの儀』の痛々しさを感じさせる。

八重垣の棺が海に流されていく。かって皇月千華音であったものを乗せて。

「九重の御蛇の光煌々と。千代八千代に、いや栄えに栄えんことをここに御願い奉る。

かしこみかしこみも申す」

九蛇卵の奏でる雅楽の調べと、女神祇官の厳かな鎮魂の祝詞に乗って、御神娘の抜け殻は潮流に乗って沖へと流れていく

そして骸は、大蛇神様の顎と呼ばれる沖の岩礁にある大渦へと呑み込まれていくのだと言われている。

「ここに『御神娘』の御霊を天に奉りたもう」

女神祇官が恭しく大地に伏し、雅楽が高々と終曲の調べを奏でる。

かくして『御霊鎮めの儀』、奉天魂は終わった。

日ノ宮媛子は、彫像になったかのように動かない。

その眼差しはただ『八重垣の棺』に注がれている。

その背を見守るのは、近江和双磨。

「さあ、行こうか」

そう言って、花婿は―――『九納登』の花嫁の肩を―――抱いた。

杜束島の新しい朝が始まる。

(次回へつづく)