(零)

無音。

無明。

無形。

虚という形容すら、ここにはふさわしくない。

それが少女を取り巻く世界だった。

帰るべき場所。

進むべき道。

とどまるべき今。

何一つそこにはなくて。

でも―――。

少女にとっては、それが当然なのだ。

もう、何もかも終わったのだから。

少女は為すべきことを為し終えた。

闘い。

足掻き。

血を流して。

ついに成し遂げたのだ。

少女に自我の欠片すらもはや必要はない。

大いなる満足を抱いて、ただ根源の無に帰ればいい。

なのに―――。

何故?

少女は存在し続けているのだろうか?

もし、少女に何かが残っているのならば―――。

水を含んだ筆のひとはけのように。

誰の目にも触れず、址など残さず。

求められも、顧みられもしない。

沈黙の中であわあわと消えていく儚いものだ。

もはや少女には知りようもないもの。

それは、誰よりも大切な人の行く末。

どうか―――。

幸せになって―――。

しかし少女は知っている。

自分にそれを願う資格などどこにもありはしないことを。

だから―――。

速やかに無に還るべきなのだと。

なのに……。

どうして。

それとも―――。

終わっていないというのだろうか?

―――まだ。

(壱)

肌を濡らす潮の飛沫と。

視界を焼く白い日射し。

海の上だ。

千華音は己が、沈みかけた『八重垣の船』に乗っていることを知る。

ここが―――。

知識としては知っていたが、髪の先ほども信じてなどいなかった―――。

『あの世』だろうか?

例えば―――。

三途の川。

レテの河。

海の彼方にあるといわれる常世の国。

死と生の世界を分かつモノ、水は生と死を分ける端境だ―――。

そこに、いるのだろうか?

違う。そんなはずはない。

心臓の鼓動が。

身体を駆けめぐる血潮が。

千華音の生が確かにここにあることを告げている。

何故?

確かに千華音は、死んだはずなのに。

『奉天魂』―――大蛇神への捧げものとなったはずなのに。

何故?

天の導いた奇跡か?

邪悪な運命の気紛れか?

それとも、誰かが仕組んだのか?

―――何故。

皇月の家のもの?

九頭蛇?

御観留め役?

どれも違う―――誰にもそんなことをする理由がない。

それなら―――誰が?

千華音がそう思い続けている間にも、半ば水船と仮した八重垣の船に強い波が打ち付けて来る。

元々、生け贄を大蛇神の御許へと送るための沈むべき船。神船なのだ。

雲が空を覆い、見る見るうちに陽は陰っていく。

水平線の向こうに、黒い塊が見える。

吹き付けて来るのは仄かな熱気を孕んだ潮風。

これが何か千華音は知っている。

嵐が来る。

風と波と雨が、今度こそ千華音の命を呑み込もうとしているのだ。

(弐)

そして、東京。

人の波と喧噪の潮騒に満ちた大海を、

千華音は泳ぐかのように―――歩いている。

流石に白無垢姿ではない。

大きめのサイズの白いブラウスと、無地のスカート、そしてパンプス。

何故か手付かずであった自分のアパートから、引っ張り出して来たものだ。

年頃の少女の華やかさなど欠片もないが。

それでも、千華音自身から溢れ出す何かが、

人目を引きつけずにはおかない。

奇異の目。

憧憬の目。

好奇の目。

その視線の全てが、千華音とっては無意味なものであったとしても。

誰にどう見られようと、どうだっていいことだ。騒ぎになりそうになったら『隠行』でどうにでもなる。

―――なんて格好だろう。こんな姿はとても見せられない―――。

ほんの少し前なら、そうも思っただろうが、

でも、もう関係のないことだ。

千華音は思う。

私、幽霊か何かなのかしら?

死んでもいない。生きている意味もない。

と―――。

千華音は逝く当てもなくただ彷徨う。

思索の糸車は虚しい音を立ててめぐり続ける。

眠るべき墓も。

望むべき死地も。

約束された場所も。

神の生け贄となるべき祭壇も。

行くべき所など、どこにもない。

なのに。

何故、あのまま嵐の海に呑み込まれ無かったのだろう?

何故、本土に泳ぎ着いてしまったのだろう?

何故、島に戻ろうとは思わないのだろう?

何故、東京などに戻って来てしまったのだろう?

ここには何もない筈なのに?

街頭の大型テレビから流れるニュースを、見るでなく見て、聞くで無く聞いている。

杜束島の報道は流れない。

大蛇神の怒りは、どうなったのだろう?

儀式が為されたから、あれで鎮まったのか?

それとも、まだ誰も気付いてないだけで滅びは始まっているのか?

幼き頃から繰り返し聞かされてきた言葉。

空や山と同じように、そこにある揺るぎない事実として聞かされてきたもの。

それが―――。

杜束島の滅び。

もしそうなら―――。

媛子は。

そうなったら、自分はどうするのか?

身を呈して救い出すのか?

たとえ望まれては、いないとしても。

もう一度、大蛇神様のために殺されろと言われても。

そう、懸命に紡いだ思いの糸はどこにも繋がってはいなかったと、まざまざと思い知らされたとしてもだ。

そんなことはちっともかまわない。

たとえあの娘の隣に、あの不愉快極まりない男がいるのだとしても―――。

ただ―――。

そんなことを思う千華音を、千華音は笑う。

―――煩い『幽霊』ね―――。

千華音は彷徨い続ける。

たどり着く場は、まだ見えない。

(三)

千華音は、見上げていた。

二階建ての小さな木造アパートを。

明かりのない部屋、二〇二号室。

そこは、日ノ宮媛子の暮らしていた部屋。

喜び、哀しみ。

希望、絶望。

はじまりと終わり。

千華音にとっての全てがここにあった。

無いものがあるとするならば、『千華音』のこれからだけだろう。

たとえこの扉の向こうが、どうなっていようと。

何一つ、変わっていなくても。

何一つ、残されていなくても。

それだけはきっと変わらないこと。

辺りに『九蛇卵』の気配はない。

残されていた千華音の部屋とは違い、もう無用なものの『処分』は終わってしまったのだろうか?

それとも―――。

千華音の手が扉に伸びる。

誰かの許可など取ってはいない。取るつもりもない。

こんな安物の錠前など、千華音に取っては手袋を外すようなモノだ。

もう、呼吸も、心もいちいち波立ったりはしない。

『熱』も『決意』も全て終わったこと。

済んでしまったことなのだから。

そして千華音は、思い出の地へと踏込んで行く。

(四)

―――何一つ、変わってはいなかった。

中古をかき集めた調度品。

壁にかかった制服まで。

アロマの小瓶たちの棚。

媛子が『おさんぽねこ』と名付けていた天井の染み。

プリクラで隙間無く埋められた、花瓶代わりのマグカップ。

何もかもがあの時と同じで。

今にも風呂の扉でも開き、媛子が姿を現すのでは。

春の銀河のような瞳を煌めかせ。

花園の芳香を纏って。

紅茶色の髪を靡かせて。

舌足らずの甘い声を響かせて。

『おまたせ、千華音ちゃん。』

ふと―――そんな風に、錯覚してしまうほどに。

ここは砂糖細工の城。この世のどこにもなかった贋物の楽園。

千華音は『幽霊』の筈なのに。

千華音の目が、ふと棚に並ぶ小物の一つに止まる。

丸い硝子瓶。

あれは―――。

『宝物の瓶』。

千華音が媛子送った堅焼きのクッキー。

『もったいなくて、食べられないよ。』

そう言って媛子は笑っていた。

あの透明で、それでいて濃密な、甘い時間。

古い写真のような、セピア色の―――。

遠い遠い記憶。

いいえ、そうじゃない

千華音は考える。

あれは本当にこの世にあったことなのかしら?

雨の中で泣きじゃくったあの娘。

叩き付ける雨の中でも、たしかに伝わってきた。その涙の熱さ。

薄暗い部屋の中で、二人並んで見た甘酸っぱいビデオ。

あの子に抱き締められているかのように感じた、きつめのパジャマ。

何もかも、幻だったのではないかしら。

と―――。

千華音の手が瓶の蓋を開く、

鼻孔を擽るのはシナモンと蜂蜜の薫。

女の子の薫り。

千華音はふと、気付く。

まだ何か入っている。

クッキー以外の何かが。

千華音の指先が、それを取り出す。

これは固く固く折りたたまれた―――紙片?

一つだけじゃない。いくつも入っている。

千華音の指先が、その一つを開く。

この感触、このページの柄、踊っている丸文字。

覚えがある。

これは媛子の手帳のページだ。

媛子の書いた文字だ。

そう言えば、あの日見た手帳のページには破りとられた跡があった。  

確かにあった。

まさか……これは。

千華音の瞳は、一心不乱に文字を追い始める。

そこには―――。

(五)

波濤と潮騒の中に浮かぶ孤島。

曇天と風の唸りに抱かれた、神の宿る地。

鈍色と夜闇に塗り込められた異界、杜束島だ。

その奥の奥、常人の立ち入ることを許されぬ聖なる森の奥に、古びた社が建っている。

ここは、大蛇神の島。

御神娘と御観留め役が『九納登』の儀を執り行う御神前なのだ。

その社の奥、控えの間。

電気の灯りなど無い古代の闇の中で、百目蝋燭の炎が揺れている。

その灯りが照らし出すのは―――。

純白の花嫁衣装に身を包んだ一人の少女。

『九納登』の花嫁、日ノ宮媛子。

その瞳はただ虚空の闇を照らしている。

「ごきげんよう。日ノ宮の御神娘。」

闇の中から姿を現したのは、御観留め役、近江和双磨だ。

まるで降り立つと錯覚するかの如く、音も気配もなく、静かに。

九納登の花婿と花嫁が対峙する。

「ああ、そのままでいいよ。」

立ち上がろうとする媛子を制し、花婿は口を開く。

その口から放たれる声は、闇の中で凛と響く清冽さと、しっとりとした薄甘さを耳朶に残す、独特の響きを持っている。

「少し話がしたかった。儀式の前にね。」

「私と……ですか……?」

「実はね、君が勝ってくれないものかと思わないでもなかったんだ……。御観留め役に相応しくないことは百も承知の上で……ね。」

「……。」

「自信満々の美形より、素直で賢い娘に惹かれてしまうんだ。

君みたいな、大風にも散らされず、ひっそりと咲く野の花に。

ただ一つの果実を実らせるためだけの花にね。」

「……。」

「しかし、お芝居とはいえ、よく一年間も続けられたモノだね。『あんな真似』をさ。」

そう言って双磨は、媛子の顔をのぞき込む。

極上の黒檀のように輝く瞳が媛子を映し込む。

「辛かった?」

双磨の問いに、媛子は口を開く。

「私は、日ノ宮の娘、大蛇神の御神娘です。」

気負いも翳りもない何処までもまっとうな応え。

「だろうね。」

双磨は軽く頷く。

「いい答えだ。やっぱり君は賢いね。」

煌めく宝石のような眩い微笑み。

しかし、媛子は気付いている。その瞳の、その奥に潜むものは、決して笑ってなどいないのだ……と。

冷えきった黒い硝子玉のように、毒に濡れ光る牙のように、寒々しく煌めいている―――そんな底知れぬ輝きを放っている。

手の内の玩具を『どう使ってやろうかな』と弄んでいるかのような、無邪気な残酷さ。

かって千華音も感じ取ったことのある、揺らめく陰の炎だ。

しかし、媛子は何も返さない。

その瞳はどこまでも深く、湖のように、静かにあるがままを映し出している。

「ありがとうございます。」

「楽しみだな、君を迎えるのが。」

「私もです。御観留め役様。」

そう言って媛子は微笑む。

柔和な、花嫁の微笑みだ。

花嫁と花婿。

可憐な花の香に誘われた、美しき夜の蝶のような、お似合いの一組。

誰が見てもそう見える、美しい光景だ。

「ではしばしのお別れだ。ごきげんよう。日ノ宮の御神娘。」

衣の裾を翻し、音もなく退室して行く。

再び、闇の中で一人になって媛子は思う。

そう―――。

こんなのどうってことないんだ。

この一年間、何もかも痛くて、苦しくて、凄まじかった。

でも全部、お芝居―――。

日ノ宮媛子の計画通りなのだから。

(六)

あの夜―――。

月光の下で、太刀を突き付けられた時から。

いや、『御神娘』、日ノ宮媛子として生を受けてきたときから、全ては始まったのだ。

「あなたは私の一番大切な人になって下さい。」

媛子はそう言った。

これはとてつもなく大きな賭けだった。

日ノ宮媛子は、決して肉体的強者ではなかったから。

幼い頃は、少し遠出をしただけで、倒れたりもしたのだ。

養生と鍛錬は続けたが、体力も瞬発力も筋力も、皇月の御神娘を越えることは不可能だった。

小さくか弱い身体に、なのに大蛇神の『しるし』だけをその身に刻まれてしまった少女には、これしか方法が無かった。

だから、大蛇神のため、日ノ宮の家のため。

賭けるしかなかった。

『全面降伏』の『罠』に。

喉が焼け付くように乾き、掌はじっとりと汗ばみ、今にも全身が震えだしそうになるのを押さえるのに、渾身の力を使わねばならなかった。

その風格も、その覇気も、その鋭気も。

全てにおいて、媛子の予想を超えていた。

戦士としての完成度には天と地ほどの開きがある。

あの腕利きの、皇月の九蛇卵たちを一瞬にして叩き伏せたあの業(わざ)の冴え。

皇月の『御神娘』は淡々と言いはなった。

「他の誰にもあなたを傷付けさせない。」

「我が『御神娘』の名において、私があなたを殺す。」

叫びもせず、吼えもせず、静かに。淡々と。

それでいて、圧倒的な殺意だけははっきりと伝わってくる。

恐い―――。

突き付けられた抜き身の刃そのものより、千華音自身が、あの研ぎ澄まされた三日月の如く輝く成層圏色の瞳が、心底恐ろしい。

その瞳は、鏡のようにありありと媛子の無力さを映し出す。

もう何もかも見抜かれているのではないか?

自分が嵐の海に投げ出された木の葉にでもなったかのような、そんな気がした。 

虫のように、木の実のように潰され―――いや、指一本動かす必要すら無いだろう。

ただこうしているだけで。

千華音という名の刃は、媛子の心を容赦なく、凍てつかせ、そぎ落とし、幾千万にも切り裂いてしまうに違いない。

それ以外の未来などあるだろうか。

でも―――

ひと思いにそうなった方が、きっと楽だろうな。

そんな風に萎えてしまいそうになる心を媛子は懸命に奮い立たせる。

駄目―――。

睫毛一本そよがせてはいけない。

少しでも気を緩めたら、意識を根こそぎ持って行かれる。

私には、獣の牙も、猛禽の爪もない。

でも―――、

媛子の自覚するただ一つの武器。

惨と苦のみに溢れていた十五年の生の中で、ただ一つ積み上げられたもの。

千華音という刃に容赦なく、削り取られながらも―――たしかに残っている細い細い糸に、

『忍耐力』に縋り付く。

そう、笑って―――。

生まれたての赤子のように、真っ新な微笑みで。

畏れを、狙いを、幾重にも刳るんで。

二人の少女の間に、永劫にも等しい瞬間が過ぎていく。

果たして、答えは―――。

太刀は動かなかった。

油断も、安心も無かったけれど

あの恐ろしい殺気は、たしかに収まっていた。

―――やった―――。

とても小さいけれど、

まだ始まりでしかないけれど―――。

それでも―――。

涙がこぼれそうになるほどの安堵感が媛子の全身を駆けめぐる。

今にも崩れ落ちそうな自我を必死に支えながら、

媛子は微笑んだ。

それは、月さえも知ることのない―――。

勝利の凱歌だった。

(七)

こうして媛子の綱渡りな『お付き合い』が始まった。

あれは、初めての『お付き合いの日』。

都内私鉄駅、右に折れてすぐの三本目の柱。

制服姿の媛子は立っていた。

コートと制服だけの地味な姿だが、その頭には人込みの中でも目立つリボンを付けている。

雛のような無力感を演出し、同時に保護欲をかき立てる。

倒しがいのない獲物。

すぐに捨てるには惜しい愛玩動物。

いい暇潰しにはなる玩具。

皇月の『御神娘』にそう思ってもらうためには、どんなことでもしなきゃいけない。

媛子の歳よりは幼めの容姿が、こんな時には役に立ってくれる。

頭の中には他愛ないうわさ話から、流行の最新情報、おすすめのスイーツまでガールズトーク向きの情報で一杯だ。

こちらから常にモーションを起こしつつ、決して意見を押しつけない。

何しろ相手は抜き身の刃なのだ。

機嫌を損ねれば、たちまちゲームセット。

即座に殺されはしないが、『計画』が失敗すれば同じことなのだから。

一年間続く蜘蛛の糸の綱渡りだ。

恐い―――。

背中を寒さが這い登ってくる―――。

何十度目、何百度目かに味わう感覚、死の恐怖だ。

暴れ出しそうになる本能を、媛子はあらん限りの力でねじ伏せていく。

大丈夫、私にはできる。

必要なのは、忍耐と、観察と、分析。

『敵を知り己を知るものは、百戦危うからず』

幼い頃から何度も何度も教えられ、心に刻み込んだ闘いの基本。

戦士としてはかなうはずもない皇月の御神娘だけれど、あの娘は私を知らない。

私の本心を知らない。

だから、私は弱いけれど―――有利なんだ。

そう繰り返し自分を鼓舞する媛子の耳に、足音が響く。

構内の床を叩く乾いた靴音の響きが、媛子の中で交響曲のように鳴り響く。

ほら、皇月の御神娘のお出ましだ。

待ち合わせの時間ピッタリ。想像通り几帳面な性格だ。

さあ、長い長い綱渡りの始まり。

内心の強い決意を露程も見せず、媛子は千華音を振り返る。

眩い黒髪、成層圏のような深く碧い瞳。

すらりと伸びた手足。白磁のような艶やかな肌。

道行く誰もが振り返る絶世の美少女だ。

でも、その瞳には暖かみの欠片すら感じられない。

どこまでも冷めている。獲物を見定める猟人の目だ。

「こ、こんにちは、千華音ちゃん!」

「……?」

千華音がふっと眉を顰める。

少し戸惑ったような感じ。

少し馴れ馴れしかったのだろうか。

同い年で『さん』はぎこちない感じだし、呼び捨てはもっと不自然だ。

それなら、『ちゃん』の方がまだ自分らしい。

媛子は後輩でも、侍女でもない。

『仲良くして欲しい』

『一番大切な友達』

なのだから。

千分の一秒の中で繰り広げられる駆け引き。刃も、拳もない、静かなる対決だ。

「……。」

何の反応もない。

―――判らない。

媛子の背筋に冷たいモノが疾る。

快でも不快でもない無関心。

これが一番厳しい。

まるでそびえ立つガラスの塔を登るかのようで、『正否』どちらかに心の針がぶれてくれなければ、媛子としても対策の立てようがないのに。

怯えちゃダメ。萎えてはダメ。

と媛子は己に言い聞かせる。

ただ無邪気に。ただ朗らかに。

その基本形を護るんだ。絶対に。

千華音がいつか見た観音仏のように形よい唇を開く。

「こんにちは。」

いい声だなぁ。と、媛子は思う。

天上から響いてくる音楽のようだ。

でも、なんて冷たいのだろう。温もりなど欠片もない。

ホームの雑踏の中にいる筈なのに、氷点下の雪原の中に立っているような気分だ。

「え、えっと……。」

「何?」

氷の剃刀のような一言が、媛子の魂をざっくりと切り裂く。

傷口から溢れ出すのは、気力、命の力、媛子を造っている根幹そのもの。

じっくり『皇月の御神娘』を観察する?

むしろ『観察』されているのは、自分の方ではないのか?

身の程知らずにも肉食獣の前で、道化を演じている間抜けな小動物。

そうなのかも……。

媛子は今にも震え出しそうになるのを懸命に堪え、考える。正しい答えを。

「……ううん、その、いきなり『ちゃん』はちょっとイヤだったかなあって……。」

ちょっと俯きながらぽつぽつと応える。

「好きにして頂戴。」

千華音は無機質な声で言い放つと踵を返す。

「……う、うん。」

取り憑く島もない。

慌てて媛子が後を追う。

「ね、どこに行こうか?」

朗らかな微笑みを浮かべながら、媛子は自分に言い聞かせていく。

大丈夫。

最初から上手くいく方がおかしい。

シミュレーションは何度も何度も、気が遠くなるほど繰り返した。

覚悟だって何度もしてきた。

仮想と現実は違うんだから。

そう自分に言い聞かせて来た―――。

でも―――。

道は細くて遠い。とても。

ほんのささやかな綻び。すぐに繕える―――媛子はそう思っていたけれど。

何かしっくりと来ない。

二人で見た恋愛映画、そのクライマックスには胸を打たれた。

限りある予算をギリギリまで奮発した、穴場のスイーツは、島ではとうてい口にできない実に上品な甘さで。

晩秋の優しい木漏れ日も。石畳を鳴らすパンプスの靴音も。風にそよぐ木の葉の囁きも。

何もかもが夢見ていた以上の喜びで、媛子が全身で『女の子であること』を体感できた貴重な収穫だった。

ただ……。

『皇月千華音』だけがまったく見えて来ない。

相も変わらぬ『ガラスの壁』のまま。

映画の感想を振っても。

絶品のケーキを褒め称えても。

クラスメートの話を振っても。

何の話を振ろうと―――時々、気のない相槌―――が返ってくるだけ。

なんて手応えが無いのか。

まるで彫像―――絶世の造形だろうけれど―――に話向かって話をしているみたいだ。

鈍感で、無邪気な少女の仮面を被ったまま、媛子は懸命に考え続ける。

始めてということもあって、無難なプランを組んだのがいけなかったのか?

リサーチのために、それとなく何度も希望を訪ねては見たのだが、千華音は―――。

「あなたの好きにしていいわ。」

の一点張りだった。

どうしてこうも何もかもが、届かないのか。

何が足りないんだろう?

話術? 表情? 語感? 仕草? 情報?

それとも―――。

媛子の言葉が、偽物だから……。

キンと凍てついた何かが媛子の背をジワジワと這い登ってくる。

どうしよう―――。

どうしよう―――。

どうしよう―――。

芽吹いた躓きは、不安の根を張り、迷いの幹を延ばし、怯えの葉を茂らせる。

そしていつか恐怖の花が咲くのだ。

そのためなのだろうか。

二度も文字通り『躓いて』しまった

一度は走ろうとして脚を縺れさせ。

二度目は放置自転車にコートを引っかけて。

始めから無力で不器用な『御神娘』を演出するつもりではあった。

でも、これはそうじゃない。

いくら気持ちで押さえ込んでも、背筋を這い登ってくる『寒け』が勝手にそうさせてしまうのだ。

それでも媛子は微笑みを絶やさない。

そうしなければ、このまま凍り付いてしまいそうな―――そんな恐怖に駆られているかのように。

何とかしないと。

焦りを露程も見せず媛子は微笑む。

すくみ上がりそうになる自分に、しっかりと言い聞かせる。

私の手に剣はない、でも盾ならば持っているんだ……と。

そして、

何一つ収穫のないまま『お付き合い』の時間は過ぎて。

夜の繁華街を二人は歩いていた。

そこにあるのは寄り道して少し遅くなった女の子たち、そんなありふれた光景。

道行く人達の何人かが、千華音の容姿に惹かれ振り返ったりはするが。

誰が気がついただろう。

この美しい少女が、―――その気になれば、瞬きする間もなく人を殺せるほどの―――人殺しの技と知識の集合体であることを。

その切っ先は常に、傍らを歩く少女に向けられていることを。

千華音がふと口を開く。

「ねえ、一つ聞いていいかしら?」

「何?」

「こんなことして、何が楽しいの?」

明日は雨かしら? と同じぐらいの無造作な問いかけ。

媛子は不思議そうに小首をかしげる。

そんなことを聞かれるとは夢にも思っていなかったとでも言うように。

少し考える……もちろん『ふり』だ。

待ってましたとばかり、とうとうと語ってはダメ。

たっぷり時間をかけて、一言一言を大切に、大事に、紡ぎ出すように話さないと。

「楽しいよ。」

媛子は訥々と語り始める。

「あの島にはこんな風に遊べるような所なんてなんにもなかった。

その上、私はしるしがあって、よその家の子と遊んだりもできなかったから。」

「……。」 

「だからずっとやりたかった。

お出かけするために待ち合わせしたり、放課後に寄り道して遊んだり、お泊まりしていろんなこと話したりとか。」

この話は、半分くらいは本当だ。

媛子はこの『計画』のために、日々、『女の子』であることの学習を重ねてきた。

知識。容姿。嗜好。仕草。

相手は日ノ宮の家の者たち、年相応の『九蛇卵』たちであったにしても、媛子はずっと心の何処かで考えていた。

私も、本当に普通の女の子になれたらな。

……と。

もちろん、そんなことなどできない。

例えば、夜空の銀河を見上げているかのようなもので。

キラキラと輝く遠い世界。

歩いても歩いても、絶対にたどり着けない場所。

「そういうのずっとずうっとね、憧れてたの。

ベットに入ったとき、その日にあったいいことを思い出して、

明日出会えるいいことを空想して。

ウキウキして、ドキドキして、ワクワクして、だからね……。」

ほんの、たとえ髪の先ほどではあっても、心が軽くなるのを感じる。

「ああ楽しかった。明日も楽しみだなって。

そう思えたらどんなにいいだろうって。」

ウソで塗り固めた媛子の生き様の中での数少ない『本当の言葉』だから。

そう言って、媛子は笑った。

「……。」

千華音は何も語らない。

―――あれ?

ただ、ほんの半瞬、眉を潜めたような―――今のは、何なのだろう?

何だかはっきりとは判らないけれど、今、何かが見えた気がしたのだ。

『ガラスの壁』ではない何かが。

もう一度、確かめよう。消えてしまう前に。

媛子は千華音に語りかける。

「……千華音ちゃんは、楽しくなかった?」

「ええ。少しも。」

また『ガラスの壁』だ。

やっぱり、ただの勘違いだったのか。

どうすればいいんだろう。

媛子は哀しげに睫を伏せる。

「……ごめんなさい。

下調べとか、もっと上手にできたらよかったのに……本当にごめんなさい。

でも次はもっと頑張るから。」

そう言って媛子が微笑んだその時。

媛子の背中を焼け付くような戦慄が駆け抜ける。

極低温の槍で貫かれたかのような、激しい衝撃。

本能が全力で訴えている。

危険だ! と。

でも、どうする。

逃げ出したところで。

立ち向かったところで。

どうにもなりはしない。

勝負は一瞬でつくだろう。

恐い。

心が軋み、悲鳴を上げる。

なんとかしなきゃ!

咄嗟に媛子は千華音に腕を絡める腕を組む。

「千華音ちゃん、あれ!」

その指さした先にあったのは、咄嗟に視界に入った小さなゲームセンターだ。

その店頭にはプリクラの筐体があった。

「最後にあれ、やっていこうよ。ね!」

そう言って媛子は有無を言わせぬ勢いで、千華音をぐいぐいと引っ張っていく。

迫り来る死の影から一歩でも遠ざかるために。

気休めにしかならないけれど、せめて人目のあるところに。

二人は筐体の中に入り込む。

「ええとね、ここを見るんだよ。」

媛子がカメラの位置を指先で指し示す。

「フレームは何がいいかなぁ? 花? ウサギ? それとも……。」

千華音が媛子の言葉を遮るように花柄のフレームを指さす。

本能のアラームは鳴りやまない。

「何だかドキドキするね。」

「……。」

『ガラスの壁』はまだ崩れない。

どうしよう!?

どうしよう!?

気ばかり焦って、頭が回らない。

もう……ダメだ。

その瞬間。

媛子が千華音の身体を強く抱き寄せ、

千華音の頬に、キスをした。

「!!」

フラッシュの閃光が二人を照らす。

そして、プリクラのシールが吐き出される。

「……何?」

千華音が媛子に視線を落とす。

大きく見開かれた紺碧の瞳には、媛子の姿がくっきりと映っている。

その瞬間、媛子の洞察力が何かを捉えた。

見える……千華音の瞳の奥の奥に、何かが映っている。何が?

『ガラスの壁』に稲妻のような一筋の亀裂が入った。

その隙間から、何かが見えかけている。

媛子は五感と観察力を総動員し、思考と経験と洞察が幾千億もの光芒となって駆けめぐる。

判った。

そう。

そうだ……これは

敵意も害意も闘志も綺麗に抜け落ちた、年相応の十五歳の女の子の戸惑いの色だ。

「何?」

「え、な、何って……?」

「今のはなんなの?」

千華音が指先で頬に触れる。

媛子の胸が、歓喜に高鳴る。

やった!! やった!!  

媛子は、慌てて両手を振って否定する。

「私も初めてで……みんなでフレームに治まるためにこうやってくっつくんだって。

あとね、クラスの子たちもふざけて抱き合ったりとか、キスしたりとか普通にやっているから、大丈夫かなって思ったんだけど。」

溢れ出しそうになる喜びを噛みしめながら、媛子は、頬を真っ赤に上気させる。

恥ずかしい。うっかりやっちゃった。どうしよう。そう見えるように。

「……普通?」

普通……はちょっと大げさだけれど。少なくとも根も葉もないデタラメではない。

ウソよりは、少しは届くだろう。

「ご、ごめんね。き、気持ち悪かったよね。」

「……。」

千華音は何も応えず立ち上がる。

「帰るわ。」

呟くように言い残すと、一人で歩き出す。

もう千華音は女の子の顔をしてはいない。

瞳も、表情も、何一つ映し出してはくれない。

「待って、千華音ちゃん。」

媛子も慌ててあとを追って走り出した。

その後、二人は会話らしい会話もなく、あっさりと近場の駅で別れた。

そして媛子は帰ってきた。

木造二階建てアパート二○二号室。

女子高生、日ノ宮媛子の部屋だ。

ペンキの剥げかけた軋む階段を昇り、後ろ手に扉を閉める。

やった―――。

その瞬間、媛子は三和土に崩れ落ちるように座り込んでしまった。

身体が綿になってしまったかのように、まるで力が入らない。

この一日で、気力も、体力も、十五年間蓄積してきた全てを使い果たしてしまったかのようだ。

でも、もう一歩も動けそうにない。

熱いシャワーを浴びて、ハーブティとアロマで充分にリラックスして、 それから時間をかけてマッサージで身体を丹念に揉みほぐす。

その筈だったけれど、そんなの無理だ。

煌めく美貌とは裏腹な、野獣にも似た勘と洞察力を持った千華音を欺き続けねばならないのだから。

そんな相手に一日中振り回されて、ただで済むわけがないんだ。

媛子はギュッと己の身体を抱き締める。

震えがまだ止まらない。

こうして押さえていなければ、今にも泣き出してしまう―――。

それどころか媛子自身がひび割れ、砕け、粉々になってしまうだろう。そう思ってしまうほどに、

本当に、本当に恐かった。

でも―――。

媛子はたしかに掴んだ。

あれが『皇月の御神娘』の『揺らぎ』だ。

気のせいでも、錯覚でも無い。

このカバンの中にたしかにある。

手帳に張られた、二人のプリクラ。

驚きのあまり目を見張る『皇月の御神娘』のあの顔が。

あまりにも無防備な、女の子の顔。

絶対に放さない。どこまでも追いかけて行こう。

『皇月の御神娘』の『ガラスの壁』を、突き、穿ち、引き剥がし続けるんだ。

その奥の奥の奥、最深部に潜む『本当』を。

ありのままの『皇月千華音』を。

私が、『日之宮の御神娘』が。

必ず捕まえるんだ。

硬く硬く誓いながら、媛子はバックの肩紐を強く握り締める。

放さないぞ。

絶対に、放さないんだ。

(八)

土曜日の昼下がり。

有料公園の一郭、木陰の四阿で、媛子は千華音と向かい合って座っていた。

目の前には草色のシートが広げられ、色取り取りの弁当箱やポットが並んでいる。

媛子と千華音、二度目の『お付き合い』だ。

目の前に広げられたお弁当箱には、サンドイッチにフルーツサラダ、シーフードオムレツ……年頃の女の子らしい華やかさで彩りされている。

しかし、その料理のほとんどは手付かずのまま残されてしまっている。

原因は媛子にだって分かっている。

全てに砂糖が多すぎ、甘ったるい。ただの失敗作だから。

「ご、ごめんね……変なお弁当で……でも……あの……。」

媛子は肩をすくめながら、もごもごと口ごもってしまう。

「……。」

千華音は何一つ応えてはくれない。

前回と変わらない、何一つ映し出さない『ガラスの壁』だ。

いや、一回目の方がまだ僅かながらも反応らしきものを感じ取れた。

適度な不器用さのアピールで無害な印象を与え、優越感を擽り、保護欲をかき立てる。

媛子と日ノ宮の家が丹念に検討し、組み上げた戦術の一つではあるのだが、あまりの手応えの無さに押さえきれない不安が沸き立ってくる。

本当にこのままで大丈夫なのか?

何処かで大きなミスをやらかしてしまっているのではないか?

だとすれば……。

麗らかな小春日和の日射しと裏腹に、媛子の心は不安の木枯らしが猛々しく吹雪いている。

そして改めて思い知らされるのだ。

目の前にいる相手は媛子に死をもたらす美しい獣なのだと。

その緊張故か今回の『お付き合い』のメインディッシュであるはずのネイルサロンのお試しコーナーでは、袖に引っかけて盛大に容器をひっくり返してしまった。

千華音は黙々と媛子の片付けを手伝ってはくれたけれど、偶然、瞬間に触れ合った手がドライアイスのように冷たく感じて、想わず飛び上がりそうになった。

不器用さのアピールは武器になる……そのはずなのだけれど。

ううん。弱気になっちゃダメだ。信じなきゃ。ここで脅えちゃいけない。揺らぎ始めたら止まらなくなってしまう。そして、そのままずるずると不安と恐怖に呑み込まれてしまって……そして。

しっかりしなきゃ。

ここは『待ち』だ。

大丈夫、亀裂はちゃんと有ったんだから。

じんわりと汗が浮かんでくるのを感じながら、媛子はただただ堪え続けるだけだ。

千華音の視線がふと動くのを感じる。

神々しいまでの輝きを放つ瞳。

その眼差しは何を捉えているのだろう?

―――媛子の手元。

人差し指と中指の指先に巻かれた絆創膏。

『一生懸命』を演出するアイテムだ。

指の傷そのものは、たしかに本物だ。

何処かに本当がないと、ウソに力がつかない。前回できっちり学んだから。

頬を染めながら、媛子は右手で絆創膏を隠す。

そしててれてれと笑う。

「たいしたこと無いから、気にしないで……。」と。

吹き抜ける風が微香を運んでくる。

感度のいい媛子の鼻が残り香をかぎ分ける。

これは、金木犀か何かだろうか?

でも、香水よりも、花の香よりも、もっともっと芳しいもの。

まさか……これって……。

皇月の御神娘そのものが放つ芳香なのかも?

そう言えば聞いたことがある。

香水など着けずとも、その身体から芳香を放ち、古今東西の英雄を魅了したという絶世の美女の伝説。

馬鹿げた寓話のはずなのに媛子には何故か否定できない。

天女、天使、女神……そんな形容が似合うほどに美しいのだから。

媛子には、まるで彼女自身が、世界でただ一つの聖なる香木であるかように思えてくる。

こんな相手だというのに、こんな時だというのに、媛子はしみじみと想ってしまう。

なんて素敵な娘なんだろうなぁ……と。

上弦の三日月を一心不乱に磨ぎ上げたようで、たとえその煌めきが、自分ののど元に突き付けられた刃のものと分かっているのに、思わず見とれてしまいたくなる。

そんな風に夢想する媛子をよそに、千華音が口を開く。

「もういいわ……帰りに何処かで食べていきましょう。」

「……う……うん。」

我に返った媛子はこくりと頷く。

今回、『お付き合い』の収穫は無し。

野球で言うなら完封負けだ。

そう思った媛子が内心肩を落としたとき、

「今度は私が作ってみようかしら。」

ガラスの壁が、不可解な軋みを上げる。

―――あれ?

今、また―――綻びが見えた。

『ガラスの壁』が、微かに軋む音―――心が揺らぐ響きを媛子の感性が捉える。

「本当?」

媛子は嬉しそうに、顔を上げる。

花が咲いたような華やかな笑顔。

子供っぽいまでの素直さと小動物めいた無邪気さ。

無意識のうちに相手の警戒心を説かせてしまう媛子のもう一つの武器だ。

「ええ。」

『皇月の御神娘』が頷く。

心の中で『お付き合い』の成果を噛みしめつつ、媛子は心の中で唱え続ける。

大丈夫、私の中で磨きに磨き抜いてきた知恵と技―――女の子―――はちゃんと『武器』になる。

きっとなる。

大丈夫。

うん、大丈夫。

その夜―――。

媛子は机に向かい、ピンクのボールペンでせっせと文字を綴っている。

傍らでは素焼きの芳香器がほんのりと甘い香りが立ち上らせている。

媛子特製のアロマキャンドルを炊いているのだ。

エッセンシャルオイルの一種、オレンジスイート10滴をベースに媛子自作のオイルを配合したレシピによって造られた芳香浴は、精神の緊張を和らげ、心身ともにリフレッシュさせてくれる。

薄暗がりの中で蝋燭の揺れる炎もリラクゼーション効果を高めてくれる。

他にも直接肌にすり込むオイルマッサージや、ぬるま湯にエッセンシャルオイルを数滴落としての入浴など様々なやり方で、心身の働きを整え、明日への活力を造り出す。

媛子の数少ない特技の一つだ。

肉体的強者では無い媛子にとって必須のスキルだったのは確かだが、そんな義務感を越えて媛子はアロマテラピーの習得に心底熱中した。

それは決して簡単なものではなく、エッセンシャルオイル品質の徹底した管理や引火性への注意、アレルギーを抑えるための絶え間ないパッチテストなど……乗り越えなくてはいけない様々な難関もあったが、今では手ほどきを受けた日ノ宮家の師匠も舌を巻く―――独自のレシピを次々と編み出すほどに成長しているのだ。

それにしてもと……媛子は思う。

「『皇月の御神娘』が、次回のお弁当を作ってくると言い出すなんて、びっくりだ。お弁当? どんなのを作ってくれるのかな?」

皮装丁の小さな手帳に、こつこつと文字を綴る。

今日起こったこと。

思ったこと。

これは、日ノ宮家の一門に送る報告書(それこそ皇月の御神娘の頷いた回数まで書き込んである)ではない。

媛子が自分自身の為に綴っている覚え書きである。

たった一つの密やかにしてささやかな楽しみ。

今日の出来事を反芻し、まとめ上げ、勝利へ至るまでの日記だ。

今回も心身共に削り落とされているかのような思いを味わった。

全身がまるで綿にでもなってしまったかのようで、今にも眠りこけてしまいそうになる。

でも、三和土から立ち上がれもしなかった前回に比べれば、こうして机に向かって記録を付けるくらいには余裕がある。

鈍亀どころか、瀕死の蟻の歩みかも知れないけれど……でも、前には進んだ。

それにしても、あの風の中でかぎ取った未知の芳香は、なんだったんだろう?

本当に『皇月の御神娘』の芳香だったんだろうか?

もし、そうだとしたら。

御神娘ではなく日ノ宮媛子として、強い興味を憶える。

調べてみたい。

もし自分の手で再現できたのなら、誰も知らない新しいタイプの芳香が出来上がるだろう……。

いつか私がお店を開くことがあったら、これが一番人気になるかも知れないなぁ。

そうしたら……。

我に返った媛子がゆっくりと頭を振る。

こんなこと考えてなんになるだろう。

私は、『日ノ宮の御神娘』。

大蛇神様の娘が、宿敵を相手に命がけの女の子ごっこをしているだけで。

他の誰にもなれないんだから。

ざわめく心がスッと落ち着いていく。

ずっしりと重いたしかなカタマリが、己の奥底に収まっているのが分かる。

改めてぶれていない自分を再確認する。

私の欲しいものは、ただ一つ。

『皇月家の御神娘の命』

うん、これで良し。

さあ、明日も早い。

次の『お付き合い』に向けて仕込みを始めないといけない。

媛子は日記帳を閉じて、立ち上がる。

(九)

木枯らし吹く晩秋。

海鳴り無き師走の海。

ひらひらと舞い踊る初春の雪。

杜束島ほどに体感はできなくても、東京でもゆっくりと季節は巡っていく。

二人の『御神娘』の『お付き合い』は―――音も光もない内なる戦場で、激しい鍔迫り合いが繰り広げられていく。

駅近くの児童公園の四阿、小春日よりの日差しの下、二人は『皇月の御神娘』のお弁当を広げている。

これで六度目のお披露目だ。

BLTサンド。

フルーツサラダ。

デザートは薔薇の花弁を散らしたゼリー。

飲み物は薫り高いホットハーブティ。

洋食だけじゃない。

和食も中華もエスニックも……どれもお店で出してもおかしく無い……いや、高級店の味だ。

「美味しい!」

「……そう?」

いつもの機械的な反応。

「ホントにお料理得意なんだね。千華音ちゃん。」

そう言って媛子は笑う。

無邪気、無為、無力。

媛子を護る無形の鎧。

「前も言ったでしょう。本に乗っている通り作っただけ。それだけよ。」

相変わらずとりつく島もない解答だ。

「そうなんだ……。」

「ええ。」

なんでそんなことを聞くのか。

ただの栄養補給ではないか。

その冷えた眼差しがそう語っている。

言葉の端々に電気でも流れているかのような緊張感がビリビリと全身を駆けめぐる。

まだまだ慣れそうにない。

緻密かつ執拗な観察の結果、媛子は『皇月の御神娘』を理解し始めていた。

食事だけではない。あらゆる『娯楽』に感心がないのだ。

押さえている訳でも堪えているわけでもない。まして鈍いものではない。

ただただ純粋に興味が沸かないのだ……と。

それが当然なのだ……。『大蛇神様』に全てを捧げる『皇月の御神娘』として生きて来たのだから。

原因は媛子にも推察できた。

問題はその先だ。

ならば、何に興味があるのか?

いくら考えても堂々めぐり、答えが出ない。

再び登る硝子の壁は閉ざされた……。

焦っちゃだめ。媛子は心の中で何度も繰り返す。

でも……。

疑念と不安に媛子の心はほぐれ、乱れていきそうになる。

このまま『亀裂』にしがみついているだけではらちがあかない。

どうすればいい。

その時―――、

吹き付ける冬の風が、媛子の肌を刺す。

「!」

悪寒に媛子は首をすくめ、身震いする。

晴天とはいえ、春が来るのはまだまだ先の話だ。

その上、研究と仕込みで何日も眠っていない。

媛子の体調は良くないのだ。

「くしんっ」

抑えきれない生理現象が媛子の口から飛び出す。

全然『女の子』じゃない。

可愛くない。

そう思った時、

ふっと千華音の白磁の指先が伸び、媛子の頬に触れる。

「!?」

悪寒など消し飛ばす激しい衝撃が、媛子の全身を貫く。

いつか思い知らされたドライアイスの冷たさではない。

冷え冷えした中にもある、なめらかな肌触り。冬場の陶器の冷たさだ。

その僅かな温度差をも媛子の肌は敏感に感じ取る。

あれ?

これって『ぶれ』なのかな?

「……。」

「ごめんね。ちょっと夜更かしして……でもたいしたこと無いから……心配……」

深い成層圏色の瞳に見据えられ、媛子はあたふたと手を振る。

「あなたはだあれ?」

「え?」

「応えて。」

「ひ、日之宮媛子。」

「あなたを傷付けていいのはこの私だけ……そうよね?」

「……うん。」

「もう少し自覚を持って頂戴。」

その瞬間、媛子の中で天恵の如き何かが閃いた。

「あの……えっとね……どうすればいいのかな……?」

「え?」

「私、そう言うの。苦手だし……あんまりよく分からなくて……だからその……私……。」

これは本当の混じった、いい形のウソだ。

極限まで鍛え上げられ、磨き上げられた『皇月の御神娘』の身体に比べれば、媛子の身体は、紙細工も同然なのだから。

「……。」

「どうすればいいかなぁ? 朝のジョギングとか? エクササイズとか?」

千華音が大きく目を見開く。

間違いない。『ぶれ』だ。

足がかりになる『亀裂』だ。

「呆れた人ね……あなた。」

「えへへ……。」

「そう言うの、あなたの言う『お付き合い』というものなの?」

「ち、ちょっと違うかなぁ……でも、二人でハイキングとかもきっと愉しいよね。運動はぜんぜんダメだけど、……千華音ちゃんと一緒になら頑張れると思うんだ。」

「……そう?」

「それにほら、これからプールに行ったり、海で遊んだりするよね……だから、その、今のままじゃ、私……となりに並んでいいのかなぁ……なんて……。」

媛子の顔が真っ赤になる。

「ダメだよね……プニプニじゃ……。」

「それで気が済むなら教えてあげる……あなたの好きにするといいわ。」

「本当に。」

「ええ。」

その時、二人の間をつむじ風が吹き抜ける。

「もう帰りましょう。少し冷えてきたわ。」

「でも……あの……ごめんね……私ね……。」

「さあ。」

千華音はそう言って席を立つ。

吹き付ける冬の風の中、媛子は感じていた。

胸の奥が熱く火照っていることを。

その夜、部屋に戻った媛子のペン先が喜びに踊る。

『皇月の御神娘』の新しい亀裂をついに……見つけたのだ。

『お弁当』の次のステップ。

久々の千華音からのリアクション。

初めて触れられた頬。

千華音が強く意識を向けているのは、媛子の存在そのもの。

媛子が『楽しむ』リアクションなのではないか?……と。

手の内の獲物の監視と観察で有ることに代わりはない。

でも、それが分かった以上、恐れてはいられない。

『楽しむ媛子』を、丁寧かつ大胆にもっともっとさらけ出していかなきゃ。

何より嬉しいのはスポーツなら『皇月の御神娘』に自然に触れる機会が多くなることだ。

触診は言葉や表情に負けないくらい、沢山のことを媛子に教えてくれることだろう。

やるぞ。

早速プランを組もう。

また睡眠時間を削らなきゃいけなくなるけど、そんなのちっとも構わない。

媛子は指先でそっと頬に触れてみる。

まだ熱い。

あの天女の指先に初めて触れられた頬。

もちろん、これは熱のせいで、興奮しているせいで、勝ったのが嬉しいからで。

きっと、そう言うことなんだ。

発熱に感謝する日が来るなんて夢にも思わなかったけど……。

二歩前進! まずはこれで良し。

「明日が、楽しみだね……千華音ちゃん。」

媛子の口元に今夜最後の微笑みが浮かんだ。

(十)

「それでね、ラストシーンもすごくすっごくね、超感動的なんだって。」

「そうなの?」

「でもね、もうやってる映画館が少なくて……今度の土曜日まで鎌倉で上映してるんだって。

それにね、ちょっと足を伸ばせば日本のハーブ展をやってる公園にもいけそうなんだ。だから……。」

「いいわ……あなたがそれで良いのなら。」

「え?」

「ケーキフェアの最終日も土曜日って言ってたでしょう? そっちは諦めるのね?」

「あ、そうだっけ……。」

慌てて携帯を取り出し、媛子は画面に見入る。

「……どうしようかなぁ。」

そんな姿に千華音は静かな眼差しを向ける

媛子がそうだと顔を上げる。

「どうせ連休だし……二人でお泊まりしてもっと色々回るのはどうかなぁ……。ええとね……。」

媛子の言葉を遮るように、千華音の唇がぽつりと言葉を紡ぐ

「お金、かかりそうね。」

「あ……えと。」

媛子がモニョモニョと語尾を濁す。

ここはとあるオープンカフェの窓際席。

駅から随分遠い住宅地の中に建っている隠れ家的な喫茶店だ。

薫り高いシナモンティーと南欧の保養地を思わせる落ち着いた佇まいが気に入って、二人で最近この店を利用しているのだ。

頬に当たる風の暖かみ。

一日一日と伸びていく陽。

庭先を彩る新緑。

季節は二人の『お付き合い』になど関係なく、すっかり春めいて来ている。

「そうだね……この前、調布の植物園に行ったときも、けっこうお金使っちゃったし……。」

「……。」

「ごめんね。勝手にはしゃいじゃって……どうしても見たかったから。」

千華音は何も語らない。ただ、その碧空色の瞳に縮こまる姿を映しているだけだ。

媛子にとってはまだまだ油断のならない『ガラスの壁』であり、不安と威圧感の猛吹雪の中、休まず弛まず進み続けなればならないのだ。

ただ一人、最高峰に挑むアルピニストのようなものなのだ。

―――それでも。

「そう?」

来た。

媛子はチャンスを見逃すまいと心の中で身構える。

『皇月の御神娘』が媛子に問いかけて来る。

「色々方法はあると思うけれど。例えばバイトの時間を増やしてみるとか……乗り継ぎの方法を考えてみるとか。」

媛子は観察する。

『皇月の御神娘』らしからぬ、柔らかい眼差しと、綻んで見える口元。

吹雪と吹雪の合間に覗く、奇跡のような晴れ間だ。

「え?」

媛子は不思議そうに目を丸くする。

森の子リスか何かのような反応。

突然の出来事に対応できず惚けている。

緊張感とは無縁のリアクション、無垢で無力で無害なことのアピール。

「でも、いいの……かなぁ?」

「いいのよ、野宿は慣れているし。」

深窓の令嬢にしか見えない千華音の口から、天気の話か何かのように『野宿』なんて似合わない言葉がこぼれ落ちる。

「の、野宿は……どうかなぁ? あんまり自信ないかなぁ?」

「……。」

「あ、でも、キャンプみたいでおもしろいかも知れないね。」

「じゃあ、そうしましょうか。野宿はともかく。」

「う、うん。」

千華音はティーカップに手を伸ばす。

心の片隅で、媛子は思う。

本当に、出会ったころから比べたら、なんという違いだろう。

『皇月の御神娘』は何者であろうと心を向けることない。

全てを裂き、断ち、刻むだけの美しき刃。

そう思っていた。

でも、違った。

興味を持つものはちゃんとあった。

それは、『日ノ宮媛子』。

味覚も、趣味趣向も、あらゆる興味は媛子を通して受け取っているのだ。

何を楽しみ、

何を囀り、

何を求めるのか、

その眼差しが媛子に注がれるとき、『ガラスの壁』は『鏡』となる。

『鏡』は『皇月の御神娘』の奥に隠された皇月千華音の女の子の姿を映し出す。

料理の腕前も。

ファッションのセンスも。

媛子を瞬く間に追い越し、むしろ媛子をリードするようになった。 

それこそがぶれであり、ヒビなのだ。

その女の子と会うのは、媛子にとっては得も言われぬ密やかな喜びだ。

ある時は、頼もしい憧れの先輩のようで。

ある時は、しっかり者で尊敬できる姉のようで。

でも、そんな中で時々かいま見える、『世間知らずの妹』のような一面があって。

それにしても―――。

なんて愉しいんだろう。

出会って、歩いて。

飲んで、食べて。

歌って、飾って。

おどけて、拗ねて、はしゃいで。

言葉を紡ぎ、耳を傾け、笑い合う。

当たり前のようで、そうでないもの。

私とトモダチが共有する、二つで一つの時間。

それだけじゃない。

吹き抜ける風、耳に響く足音、取り巻く世界たちの匂い。

何もかもが違って感じられる。

いいなぁ。

すごくいい。

いつまでも終わらない日向ぼっこみたいな心地よさも。

賑わうお祭りの夜のような高揚感も。

何もかもがぎっしり詰まってる。

本当に素敵な、

めくるめく女の子の時間。

道行くこの子も、あの子も、その子も。

みんな、毎日、呼吸するように当たり前に楽しんでいる世界。

そこは媛子が、絶対に踏み込めないエデンの園。全てを捨てて、飛び込んでしまいたいと、心の底から望んで止まない世界だ。

もしも―――と媛子は思う。

もし道行くあの娘たちに自分がそう思っていると伝えたら、なんて言われるだろう?

鼻で笑われるだろうか?

そんなにいいものでも、お気楽なものでもない。ウソや衝突や力関係や、いろんなドロドロ、トゲトゲしたもので溢れている。

花園だって食物連鎖の輪の中にある。

そう言うのを何て言うか知っているか? となりの花は赤い、だ。

きっと、そう言うのだろうな……。

それでも、媛子にとっては、やはりそこは麗しの楽園だ。

だって、本当の瞬間は何処かにあるから。

暗い坑道の奥から掘り出されたダイヤのカケラのような、本当の瞬間と出会う瞬間があるのだろうから。

媛子には、そんなものはない。

二人で分け合ったできたてのクレープの味も。

観覧車の上から見る夜景も。

にわか雨の中、一つのコートを傘に二人で走ることも。

全部、ただの情報で、闘いのための道具。

殺し合う相手と演じる、命がけの茶番劇でしかないのだから。

それが日ノ宮媛子。

大蛇神の御神娘。

でも……。

「ねえ。」

千華音の突然の問いかけが、瞬時にして媛子を深い思索の世界から引き戻す。

さあ行こう。

私は人形。

トモダチを演じる為の人形。

無い物ねだりなんかしない。

ウソを楽しみながら、味わいながら、黙々と進んでいけばいい。

相手は死を呼ぶ美貌の狩人で、私は牙も爪も無い兎だ。

狩人の庭で飼われている。

いつか祭の日の晩餐に饗せられるために。

でも、大丈夫。

兎だって、武器は待っている。

ウソと誤魔化しと観察力……そして秘密。

幾重にも幾重にも刳(く)るんで隠した必殺の針。

『皇月の御神娘』への殺意。

やるぞ。

そんな内心の決意を露程も感じさせず、媛子は応える。

「な、何? 千華音ちゃん?」

「この前、媛子にもらったアロマキャンドルなんだけれど。」

「うん……どうだった?」

『皇月の御神娘』の唇が動かなくなる。

考え込んでいるのだ。

めったに、見せない『戸惑いの顔』。

大きなぶれの予兆を感じる。

期待に胸を大きく膨らませながら、媛子は焦ること無く答えを待つ。

「……よく、分からなかったわ。」

「そっかぁ……。」 

思ったよりも反応が薄い。

あまり効果的では無かったみたいだ。

「イヤだったっていう訳ではないの。ただ媛子の言うような効果があったのか、分からないだけ。」

「気にしないで。体調とか色々関係してるし、香料の配合とか、やり方を変えればまた違ってくるから。」

「やり方?」

「マッサージを組み合わせたりするの。」

指を動かす仕草をしてみせる。

「それって、一人でもできるものなの?」

「できなくはないんだよ……。例えばね、左手の甲のここ……。」

媛子は親指で、左手の甲のある部分を押す。

「ここなんだけど。」

千華音も真似をして左手の甲を押す。

「こう……かしら?」

ポイントが分からないようで、不思議そうに首を捻っている。

「ここだよ。ここ。この辺り。」

「……?」

千華音はしきりに指でツボを探っているが、まだ上手く行っていないようだ。

何度見ても不思議に思える。

どんなことだって器用にこなしていた『皇月の御神娘』がもどかしそうにしている。

前にも―――本当に希なことだけれど―――見たことがある。

文武両道の完璧なお嬢様が、ふっと無防備な、女の子の顔を晒す瞬間。

『世間知らずの妹』の顔だ。

媛子の頬が思わず綻びそうになる。

『ぶれ』という足がかりでもあり、心の片隅でほっと一息付けるありがたい瞬間でもある。

「人によって微妙に違ったりするし……難しい?」

「……ええ。」

千華音がスッと媛子に向かって左の掌を差し出す。

来た! 

「やってみてくれないかしら。」

「う……うん。」

夢にまで見た瞬間、触診のチャンスだ。

体温、皮膚の感触、脈の高鳴り、発汗。

全て情報の宝庫だ。

その全て組み合わせ、丹念に分析すれば、『皇月の御神娘』の秘めた感情を暴き出すことさえできるかも知れない。

もっと先のことかと思っていたのに。

まさかこんな形で訪れるなんて。

逸る心を抑えながら、媛子はおずおずと震える指先を伸ばしていく。

浮かれてはダメ、きちんと気を張って。

『罠』の存在を慎重に確かめながら。

心をしっかり閉じつつも、自在に動かす。

これは先制攻撃でも、偵察行為でも無い……突然の出来事に戸惑う女の子の化けの皮を幾重にも羽織りながら。

媛子の掌が千華音の掌をそっと包み込む。

媛子の指先が、千華音の掌のツボを探り当てる。

いくぞ。媛子の指先に力が込もる。

その瞬間。

「!?」

媛子の全身に凄まじい衝撃が疾る。

ドクン!!

鼓動が激しく高鳴る。

思わず手を放し、飛び退いてしまいそうになるほどだ。

「?」

千華音が不思議そうに媛子を見つめる。

拙い! バレたら終わり! 鎮まれ、私!

激しい心の揺らぎを毛ほども見せず、媛子の指先は別の意志を持つ生き物のように動き、千華音の掌のツボの一つを探り当てる。

「ここ……中指の付け根の少し下の……ここをね……こう……こんな感じで。」

指の腹に力を込める。陶器にも似た手触りの肌を通し、じわりと熱が伝ってくる。

「どうかな? 感じる?」

「ええ……少しジンとしたような……でも、気持ちいい……面白いわね……。」

千華音が初めての感触を確かめるように、指の腹で何度も押してみる。

「よく分かったわ、ありがとう。」

口元が嬉しそうに綻ぶ。

「よかったぁ……。他にも色々あるんだよ。」

「へえ……たとえばどんな?」

「ダイエットに効果があったりとかね……。」

にこやかに話しを続けつつ、媛子の頭脳は猛然と回り続けていた。

頭に浮かぶのはただ一つのことだけだ。

皇月の御神娘の肌。

それは媛子が想像していたどんな感触とも違っていたのだ。

指に残ったのは―――。

痺れるような、焼け付くような熱さ。

(十一)

あれは、なんだったんだろう?

今日の『お付き合い』も終わり、部屋に戻った媛子は、机に向かいながら媛子はただ考え続けている。

ペンはまったく奔らず、傍らのチャイは、手を付けられることなく虚しく冷めていく。

媛子はペンを置いて、親指に見入る。

触れた瞬間のあの不可思議な感触。

脈の乱れ、体温の上昇、緊張する肌。

それらが迸るように媛子の指先へと押し寄せてきた。

今でも、全身が痺れるような熱さをありありと思い出すことができる。

本当に何だったのだろう?

皇月千華音は、何を思い、感じたんだろう?

媛子の脳裏に様々な触診のパターンが浮かびあがる。

『憎悪』

『驚愕』

『嫌悪』

しかし、この独特の熱さはどれにも該当しない。

負の感情に刺々しい感じはしなかった。

それなら……なんなのだろう?

媛子が見知ってきたものから近い感覚を、無理矢理当てはめてみるなら―――。

『戸惑い』

……だろうか?

でも、きっとそれだけじゃない。絶対に違う。

分からない。

最悪のパターンを考えれば。

『皇月の御神娘』に媛子の本意を見抜かれ、咄嗟に阻まれたということになるが。

違う。それなら何かリアクションがあるべきだし、そもそもこうして媛子が無事でいられる筈がない。

何か、特殊な生理現象なのだろうか?

それとも……。

ある閃きが媛子の脳裏に浮かぶ。

まさか。

負の感情で、無いとするなら。

まさか―――。

打倒『皇月の御神娘』のために、日之宮家が立てた計画の一部には、千華音に恋愛の味を教える―――。すなわち、『恋人』をあてがうというものもあったのだ。

人は恋に酔い、愛に溺れる。

時に理性も損得も吹き飛ばしてしまう。

それは戦士としての力、御神娘としての力を大きくそぎ落とす筈だ。

つけ込むべき、大きな隙となり、致命的な傷となるはずだ。

しかし、『恋人』役の選定に、大いに難があるため、なかなか計画ははかどらなかったのだ。

何しろ『御霊鎮めの儀』は杜束島の絶対の秘儀なのだ。

第三者になど話せることではないし、かといって九蛇卵に相手をさせるのは―――御神娘の本能の前では―――もっともっと危険だ。

密かに本土で何人かの九那登を『彼氏役』に養成し続けていたこともあったが、問題点は多く、実行を疑問視する声もあった。

媛子自身も、その計画にはあまり興味を持てなかった。

そんな計画など必要ない。自分の力だけで何とかしてみせる。

そう思っていた。

でも―――。

これがそうなら―――。

喜びと驚きと興奮だというなら。

まさか―――。まさか―――。

『皇月の御神娘』が媛子を?

そんなバカな……

ありっこない。そんなのウソだ。

だって、二人のお付き合いも友達も、お互い納得づくのごっこ遊びで……。

私たちは『大蛇神の御神娘』で。

殺し合うさだめの星に生まれた者で。

大蛇神様に誓って、あるはずがない。

『皇月千華音』が『日ノ宮媛子』を好きだなんて。

でも、媛子には、それ以外の理由は考えられない。

『御神娘』を『御神娘』が好きになる。

その好きは、一体、なんなんだろう?

親友として?

宿敵(ライバル)として?

それとも……?

  愛。

ウソだよ。

だって―――。

二人とも……女の子と女の子……なのに。

ドクン。

突然、鼓動が高鳴る。

え?

今のは、何だろう?

息苦しいような、それでいて身体の芯が火照っているような。

生まれて初めての不可思議な感覚。

これって……。

分からない。

媛子の指先が動き、己のツボを刺激する。

落ち着いて。

落ち着いて考えよう。

考えれば、分かるんだ。

時が過ぎて―――。

浴槽の湯船に身を浸している媛子の姿があった。

その表情には乱れの影もない。

入念なマッサージと、浴室独特の静謐が媛子に冷静さを取り戻させたのだ。

天井の電灯を見上げながら、媛子は自分を省みる。

何であんなにショックを受けてしまったんだろう?

計算はしていたけれど―――私は人に強い好意を向けられたことはない。だからかな?

私は『分からない』ことに弱すぎるなぁ。

仕方ないといえば仕方ない。

きっちりと観察し、集めた情報こそが媛子を支えている土台なのだ。

考えてみれば、恋愛なんて、媛子だって体験したことなんかない。

知識として知ってはいても、自分が想われるなんて夢にも思ってなかった。

まして女の子同士なんて。

分からなくて当たり前なんだ。

だからついグラグラしてしまう。

でも、もう、大丈夫。

全然平気。

これはチャンスだ。しかも大チャンスなんだ。

『皇月の御神娘』が『日之宮の御神娘』を、好きだなんて。

こんな小さな事にひっかかってる場合じゃない。

立ち止まってなんかいられない。

もちろんまだまだ油断なんかできっこない。

確証がある訳じゃない。

気の迷いかも知れない。

分かったつもりになって浮かれてちゃいけない。

だって、『皇月の御神娘』には一発逆転の力があるんだから。

冷静に。確実に。詰めていかないと、こっちが返り討ちにあうに決まってる。

でも、やっぱりこれはチャンスなんだ。

だって―――。

やっと、私が攻める番が来たんだから。

だから、気後れするのも悩むのも後回しだ。

そうだよ―――。

あのドキドキは、気持ちの高ぶりで、きっと興奮してるからで。

勝ちへの道筋が、見えたからなんだ。

いいよ。

もっともっと、見せてあげる。

もっともっと、教えてあげるね。

恐がりで、泣き虫で。でもあなたにはとっても一生懸命な私を。

笑顔も。涙も。優しい言葉も。温もりも。

楽しいこと。嬉しいこと。

欲しいだけあげるからね。

もっと好きになってくれるようにね。

残り時間いっぱい、二人で愉しく『おんなのこ』をしようね。

使命も、宿命も、忘れちゃうくらいにね。

そして―――。

「捕まえたよ、千華音ちゃん」

媛子の口元に研ぎ上げた鎌のような笑みが浮かんだ。

(十二)

二人は春に包まれていた。

空の碧。

地の緑。

その間を舞い踊る無数の桜色。

満開の桜並木の間を、二人は歩く。

桜を見る媛子の目は幼子のように輝き、

千華音の視線はそんな媛子に注がれている。

「いいなぁ……」

小鳥たちが囀るように、媛子は言葉を紡ぎ続ける。

「島に無かった訳じゃないのに、どうしてこんなにステキに見えるのかなぁ? 

島の方が静かだし……空気もずっと美味しいし……なのに……。」

「……ふふ。」

千華音がほんの微かに、微笑む。

その周りをとりまく何かが、ほんのりと和らいでいるのが分かる。

春の精の吐息のような、甘い香りが媛子を包み込む。

「そんなに……お、可笑しいかなぁ。」

「ええ、可笑しいわ。」

「……そ、そうだよね。」

千華音の指先が媛子へと伸びる。

たおやかな指先が、肩に留まった桜の花びらを摘み取る。

「……。」

千華音は、摘んだ花びらを愛おしそうに見つめている。

名画のような、その姿から媛子は目を放すことができない。

みるみる桜色に染まっていくその頬が、その証だ。

「いつか言ってたでしょう? 『初めてで、楽しい』って?」

「あ……そうだね。」

納得したかのように、媛子は頷く。

「二人で、お花見なんて初めてだよね。」

媛子がスカートの裾をそっと広げ降る花びらを受ける。

「……これも初めて。」

見回せば、周囲の芝生は花見客で溢れかえっている。

学生たちのサークル。

会社のイベント。

親子連れ。 

野放図な喧噪と笑い声とが耳を擽る。

「また来ようね。」

そう言って、媛子が微笑む。

「もっといい雰囲気のところを探して。

ちょっとくらい、遠くてもいいから……ちゃんと場所も取って、美味しいお弁当も作って、今回は色々あって時間が足り無かったけど、今度はちゃんと計画して……。」

お金以外の手間暇は、極力惜しまない。

それが『お付き合い』の中から生まれた、暗黙のルールなのだ。

「でも二人でお花見なんて変だね。寂しくなっちゃいそう。」

千華音は応えない。

その眼差が注がれた先にあるのは、開いていないつぼみだけだ。

もう、桜の季節も終わる。

桜は来年も咲くだろう。再来年も。その次の年も。

でも……。

媛子が千華音の横顔に視線をうつす。

「……千華音ちゃん……?」

媛子の顔に不安の翳りが過ぎる。

「媛子。」

「……。」

「今夜……空いている?」

「……?」

「夜桜もいいものよ……きっとね。」

「う、うん!」 

媛子の顔がぱあっと綻ぶ。

「じゃあ、七時にいつものところで待ち合わせで……いいかなぁ?」

「ええ、いいわ。」

そう言って千華音は摘んだ桜の花びらを、シルクのハンカチに包んだ。

やった。

やった!

アパートの私室で、媛子は一人、心地よさげにメロディを口ずさんでいる。

これは勝利の凱歌だ。

何もかも媛子のプラン通りに進んでいる。

いや、それ以上に上手く行ってる。

千華音ちゃんは、媛子が水を向けさえすれば、どんどん『お付き合い』に乗ってくる。

あの恐ろしかった碧い瞳。深淵を抱えた筈の瞳が、まるで清々しい青空のように媛子を包んでくれているんだから。

「夜桜もいいものよ……きっとね。」

千華音の言葉は戦果の証。キャンディを舌先で転がすように、何度も味わう。

忙しげに服を脱ぎ捨てながら、媛子の思考はくるくるとめぐり続ける。

何を着ていこうかな?

ノースリーブの白いワンピース。

春らしい緑のジャケットで隠して。

ちょっと肌を見せたら、千華音ちゃんは、どんな顔するのかな?

手作りのお菓子も持って行こう。

ちょっと焦げちゃったけど、きっとその方が、話も弾むよね。

だからよし、だ。

楽しい。

何もかもが楽しくて仕方ない。

言葉で、

仕草で、

笑顔で、

二人で積み上げていく、女の子の時間は最高だ。

恐くなってくるくらい、嬉しい。

そう言えば、誰かが言っていたっけ。

一番素敵なのは何時なのか?

会っている間じゃない。

素敵な思い出でもない。

待っている時間だと。

本当にその通りだ。

待っててね。

千華音ちゃん。

ふっと鏡の中の自分と眼差しが合う。

「……え?」

衝撃が鞭となって、媛子の心を激しく叩いた。

なんで、こんなに顔を赤くしてるの?

なんで、瞳が潤んでるの?

なんで、苦しいくらいドキドキしてるの?

この鏡に映っているおんなのこは……誰だろう?

だってこれ、私じゃないもの。

そんなバカな考えがふっと脳裏を過ぎる。

媛子の心の警報が鳴り響く。

慌てて、いつものマッサージを始める。

違う、そうじゃない。落ち着いて。

これは、『女の子』を楽しんでいるからで。

圧倒的に優位な立場だからで。

ここに映ってるのは私なんかじゃない。

幾重にも被ったニセのお面。

誤魔化しの生地を、ホントウの糸で縫い上げたかりそめの衣裳。

ちゃんと分かってる。

少し、はしゃぎすぎただけ。

指先から肌へ、刺激と理性が伝わっていく。

呼吸と鼓動の乱れが、治まっていく。

これでいい。

ホントの私は……。

私は、『日ノ宮の御神娘』。

『皇月の御神娘』をこの手で―――。

千華音ちゃんを……。

その解答(こたえ)が稲妻となって、媛子の胸を貫く。

「ッ!!」

媛子が唇を噛む。

赤く染まるほどに、強く。強く。

ダメだよ。早く支度しなきゃ。

時間が無いんだから!

千々に乱れる心持ちとは裏腹に、その指は別の生き物のように動き続ける。

頼もしい相棒。

魔法の杖。

とっておきの秘密兵器。

しかし、媛子は生まれて初めて、自慢の武器に寒気にも似た恐ろしさを感じ始めていた。

(十三)

『四月十八日

駅前の喫茶店でお喋り。

バイト時間と『お付き合い』の調整の話とか。

新しいバイト先についての話しも。

試しにカワイイ制服に見蕩れてみる。

やっぱり少し考えてるみたいだった。

分かりやすいよ、千華音ちゃん。』

『四月二十二日

自然公園でボーッとする。

初めてとか関係ないんだなぁ。

何もなくたって、何もしなくたってちっとも構わない。

千華音ちゃんと一緒なら。

それが一番。

とか今度、言ってみようかな?

大喜びするよね、きっとw』

『四月二十九日

二人でテニス。

これ以上無いくらい盛大に転んでみた。

その時の顔ったらなかった。

写メしときたかったなぁ。残念。』

『五月八日

通りで見かけた小猫とちょっとじゃれてみる。

千華音ちゃんにも抱かせてあげたら、凄く嬉しそうだった。

ネコちゃんがネコちゃんをだっこするの図w

大きな小猫ちゃん。』

『五月二十三日

二人でショッピングモールを散策。

そろそろ夏物の新作が出回るころ。

歯が浮くような言葉で褒めちぎる。

千華音ちゃんは何着ても似合うからいいなぁで〆。

まんざらでも無いのが見え見えw

噴き出しそうになる。

ホントに子供だなぁ。』

『五月三十日

クラスメートの話などで過ごす。

アイドルの話題、誰がカッコイイとかから始まり恋愛の話に。

全然乗ってこない。ていうか軽く不機嫌そうに見えた。

ふーん、私が他の誰かを好きとかステキとか言うのは、イヤなんだね。

凄いフツーw

でも、やっぱりこっち系の話は×なんだ。

大丈夫だよ、私が千華音ちゃん以外の誰かなんて見てないよ。

そう言ってあげたくなる。

でも、反応見るのも、ちょっと面白い。』

『六月九日

一日中雨。

本当に久しぶりの丸一日のお休み。

それなのに、何もせず、できずに過ごしてしまう。

何もしない方が、疲れた気がする。

なんでかなぁ?

何だか寝付けない。

千華音ちゃんへのお休みなさいの『メール』の文面をぐるぐる考える』

『六月十五日』

ローカル線に乗って、またも隠れ家的ケーキ屋ヘ行く。

今回は新作のお披露目、凄く楽しみ。

午後の日射しが凄く心地いい。

他の乗客がいないのを確認し、ちょっと仕掛けてみる。

寝たふりをして、思い切り、もたれかかってみる。

案の定、真っ赤になっていた。

どうしていいか分からない。そんな顔して。

そんなに私のこと好きなんだね。

ウレシーなぁ。

私に甘えてもらって嬉しいよね?

ケーキなんかより、何倍も何十倍も甘い一時。

私もダイスキだよ、千華音ちゃんw』

『六月十九日

一度試そうと思っていた計画、『遅刻大作戦』を実行。

携帯もあえて持たずに、こっそり観察。

携帯を覗いている。

まるで、ご主人さまにほっとかれたわんこみたいだ。

最後まで放っておこうかとも思ったけど、カワイソウ過ぎるので涙目で駆け寄って行ったら、やっぱり全部許してくれた。

あんまり笑わせないで欲しいなぁ。

噴き出すの堪えるのだってけっこう辛いんだよ?千華音ちゃん。』

『六月二十四日

二人でぶらぶらとお祭りの屋台めぐり。

人込みは嫌いだけど、楽しい。

道行く人たちの目が千華音ちゃんに集まって行くのが分かる。

それが自分の事みたいに誇らしく思えるから。

きっと、コイビトがミスコンで優勝した人がこんな気分になるんだろうな。

王子様より凛々しくて。

お姫様よりも綺麗で。

でも、みんな知らない。

私のために好きでもない人込みに付き合ってくれること。

そっと、私の手を握ってくれること。

こっそり髪留めを新しくしていること。

私の『大切な人』のことを。

みんな知らない』

『六月二十九日

羊飼いは羊を追う。

緑の大地を奔らせて。

せっせと餌を与え。

毎日、小屋を掃除して。

我が子のようにいとおしむ。

いつか、祭壇に捧げるために

……だから』

『七月一日

誰の言葉だっけ?

「怪物と戦う者は自らも怪物にならないように気を付けなければならない。

汝が長く深淵をのぞき込む時、深淵もまた等しく汝をのぞき込んでいるのだ。」

私は違う。

ちゃんと分かってる。

これまでのこと、これからのこと。

相手のことも、私のことも。

何もかも分かってる。

どうぞ、見たいだけ見ればいい。

見抜かれなければいい。見透かされなければ構わない。

私は日之宮の御神娘。

大蛇神様の娘。

恐くなんか無い』

(ページの破られた跡)

『(日付無し)

千華音ちゃん……』

(十四)

夏の夜。

小さな児童公園の誘蛾灯の下で、媛子が一人立ち尽くしている。

雨雲の傘が空を覆っている。

昼間の燦々としたビーチとは大違いだ。

媛子はぼんやりと考える。

そんな季節じゃないのに、なんでこんなにも寒いんだろうなぁ……と。

何もかもがひどくおっくうで、面倒に感じて仕方がない。

部屋に籠もっていても何一つ手につかず、 気分転換のつもりで夜の散歩に出たのだけれど……これじゃあ。

たぶん気温のせいでも、湿度のせいでもない。

私が、日之宮媛子が、隙間だらけだから。

探っても、探っても、何も見えてこない。

自分の中に、要石の如く座り込んでいた確かなものが、見あたらない。

代わりにあるのは、胸一杯に詰まっている、何か。

とろりとして形が無いようで、それでいてなぜか眩しくて。

真っ直ぐ見つめようとすると、胸が締め付けられるように、重く、辛くなってくる。

そんな何かなのだ。

繰り返される自問自答の中で、単語の一つが媛子の心に食い込む。

辛い? 辛いって……?

何が?

勝ってるのに……。

『皇月の御神娘』をこんなに追いつめているのに?

『日之宮家』のみんなも凄く喜んでいる。

この前、家長から直々にお褒めの言葉を戴いたくらいだ。

パターンが見えてきたから飽きたの?

スリルが無いから物足りない?

違う。そんなわけ無い。

『御霊鎮めの儀』は『御神娘』の背負う聖なる勤めなんだから。

そういう次元で考えていいものじゃないのに。

胸が……苦しい。

分からない。

自慢のアロマテラピーも、得意なはずの分析も、媛子を助けてはくれない。

純粋な楽しみだった筈の『女の子』の疑似体験も、昔のような激しい喜びをもたらしてはくれない。

己を奮い立たせるために、そして、本心を確認するつもりで、日記に乱暴な言葉を擦り付けたりもした。

でも―――ダメだ。

なんで、こんなに分からないんだろう。

媛子自身のことなのに。

『日之宮の御神娘』を好きな、千華音ちゃんのことなら、どんなことだって手に取るように分かるのに。

千華音ちゃんのことは分かる……。

もし、そうなら。

私が知らないのは、『日ノ宮媛子』?

そんなわけ無い。

ちゃんと演出だってできている。

今日だって、あんなに上手くこなせたんだ。

媛子は今日の『お付き合い』を思い返す。

季節はずれの砂浜。

たしかに、突然、千華音が媛子を置いて一人で行ってしまったけれど、そんなこと想定の範囲内だった。

いかにもな連中にまとわりつかれたことだって……別に恐いなんて少しも思わなかった。

だって、いつだって煙に巻いて逃げられるから。

なのに、そうしなかった。

来て欲しい誰かの姿を求めていた。

きっと来てくれる。来て欲しい誰かを。

そして来てくれた。

潮風に長い髪を靡かせた姿が、本当に格好よくて。

手首を引いてくれた手の力強さが、とても嬉しくて。

なんて、素敵なんだろうって。

ちょっと待って。

媛子は己に問い直す。

あれはあくまで演出だった。

騎士の役を演じさせるちょっとした計画なのに。

なら、その後になんで……。

媛子は、そっと胸に触れる。

こんな風に、苦しくなったんだ。

その後、もっともっと盛り上げられたのに、

アイスを分けあったり、波打ち際でじゃれてみたり、並んで海の夕日を見たり、いくらだって手はあった。

お得意の『女の子』でいくらでも千華音ちゃんを追いつめることができたのに。

しょげかえる芝居なんてちょっとでよかった。あんなに続ける必要なんか無かった。

分かっているのに。

どうしても気持ちが切り替えられなくて、

盛り上がらずに、お流れになってしまった。

こんなの演出じゃない。

『日ノ宮媛子』の作戦なんかじゃない。

何かがぶれている。

私は、『日之宮媛子』は、私が分からない。

私は―――。

どうなっちゃったんだろう?

まるで『鏡』の中の自分と、入れ替わってしまったみたいに。

仮面が、本当の顔だと思い始めている。

自家中毒的症状だ。

媛子はふたたび自分に言い聞かせる。

相手は御神娘だよ。

十六歳の誕生日に殺し合う。世界でただ一つの、運命を共有する相手だよ。

好きなんてありえない。

絶対に無い。

無い。

なめらかな白磁の肌が。

無い……。

濡れ羽色の黒髪が。

無いよ……。

吸い込まれそうな、碧い瞳が。

無いんだったら……。

ダメだ……ちっとも心が静まらない。

来て欲しい。

昼間の浜辺の時のように、今、ここに来て欲しい。

何千倍、何万倍もの強い気持ちで媛子は、願う。

来たって助けてなんかもらえない。

何も話せない。

分かってる。

でも、駆けつけてきて欲しい。

顔が見たい。

声が聞きたい。

お願い……。

「何しているんだい? こんなところで」

音も気配もなく突然降ってきた声に、媛子の全身に、鞭で打たれたような緊張が奔る。

夜の帷が人の形となって、舞い降りたかのような影と媛子は対峙する。

蛇面を被った神祇官、『御見留め役』。

近江和双磨。

媛子は恭しく頭を下げる。

大蛇神様の使者である『御見留め役』に対しては『御神娘』であっても礼を尽くさねばならないからだ。

「そう畏まらなくていいよ……。まるでオレが取って喰いにでも来たみたいな気分になる。」

「……いえ、その……。申し訳ございません……。」

「『大蛇神様』の娘である君たちに、恐れながら婿入りする身なのだからね、こんな風に頭を下げてもらえるのも今だけ。うっかり大きな顔をするほどお調子者ではないよ。」

「は、はい。」

ああ、そうなんだっけ。

媛子は、そのことに全然気が回っていなかった自分に気付く。

『奉天魂』の後のことなんて、気にしてる余裕なんて全然無かった。

「分かってくれれば嬉しいんだけれどね。」

そう言って双磨は笑う。

「今日は、ちょっと聞きたいことがあってね。お節介かも知れないんだがね。」

「お節介……?」

「君、悩んでないかい?」

「私が?」

「今日は君たちを一日中観察していてね……。すこうし、気になったのさ。すこうしね。」

媛子の心に不安のさざ波が立つ。

気配は何一つ感じなかった。

流石に『九卵蛇』とはレベルが違う。

でも、たいしたことはない。

そんなの、想定済みで行動しているんだ。

私も、千華音ちゃんも。

「もちろん、オレはどちらの味方もできないししたいとも思わない。

できることは『警告』と『注意』くらい。所詮は『掟のための調停役』だよ。」

「……。」

「でもまあ、話を聞くくらいいいだろう。さっき、『皇月の御神娘』のところに寄ってきたしね。

君の顔も見ておかないと、不公平だろう?」

「お心遣い……痛み入ります。」

媛子は深々と頭を下げる。

「で、何もないのかい?」

媛子に視線をあわせるようにしゃがみ込む。

穏やかな眼差し。

口元に浮かぶ柔和な笑み。

でも、そんな口調や表情とは裏腹に、完全に媛子を子供扱いしているように思える。

「……いえ、はい……。」

「本当に?」

媛子は、顔を上げ、

「そうとは思えないんだけどなぁ……。」

そう嘯きながら袂の中から何かをつまみ出す。

小さな、光るもの?

指輪?

違う。あれは。

媛子の背を衝撃が貫く。

あれは、硝子玉だ。

私が昼間、千華音ちゃんにもらったものとそっくりの。

同じもの? そんな……バカな。

でも、私……あれをどうしたろう?

部屋に置いてきたの?

それともポケットにしまってあるの?

思い出せない。

今日の私はぐらついている。

まさか……。

不安の鼓動が鳴る。

まさか……。

『御見留め役』は、気付いている?

何もかも。

でも動けない。

確かめられない。

気付かれる。見透かされる。

それは、だめだ。

変わりそうな顔色を。

胸の奥で暴れ回る不安感を。

必死に押さえ込み、ねじ伏せる。

「……どうしたの?」

双磨が『黒檀色の瞳』で媛子を見据える。

何を考えているか分からない瞳。

色も形も、気配もない。

なのにいつの間にか心の奥底まで絡みつかれ、身動きが取れなくなってしまいそうだ。

絶対に慣れることのない眼差し。

千華音ちゃんの瞳が『紺碧』なら、双磨は『夜』そのものだ。

惑わせ、呑み込み、押しつぶす『夜』だ。

『紫水晶』の瞳と、『黒檀色の瞳』が交錯する。

不安と疑念が大岩か何かのように、媛子の心にのしかかってくる。

『皇月の御神娘』との『お付き合い』にだけでもこんなに辛いのに。

これじゃあ堪らない。

こんなのは、もういやだ。

ふらふらと心が揺らぎ出す。

何もかも投げ出してしまいたくなる。

目を逸らしてしまおう。

この苦しみをほんの一欠片でもいいからぶちまけてしまおう。

『御見留め役』にばれたから何だっていうのか。

別に『御霊鎮めの儀』の掟に背いてなんかいない……。

懺悔か戒告みたいなものじゃない。

甘い誘惑を纏った言い訳たちが心の中を飛び回る。

そして、媛子は―――。

「本当に平気なんです。『御見留め役』の気を煩わせるほどの事はありませんから。」

涼やかに微笑んだ。

「……。」

「お心遣い、ありがとうございます。」

そう言ってぺこんと頭を下げる。

誰一人観客のいない児童公園で演じられる静かな攻防戦。

「ならいいんだ。」

双磨は薄く微笑み、あっさりと、立ち上がる。

「嵐が……来そうだ。」

ふと空を見上げ、呟く。

「?」

たしかに今にも泣き出しそうな天気だけど……嵐だなんて。

「ごきげんよう。」

裾を翻し、闇の中へととけ込んでいく。

一人、残された媛子は力なくブランコに座り込んでしまう。

そして大きく大きく息を吐く。

疲れた。

魂にガツガツと鑿(のみ)を突き立てられ抉られたような気がする。

ただでさえ昼間のことで心がぐらついているから、まるで肩に鉄塊をずしりと乗せられたような気にさえなる。

でも、ここで目を逸らしちゃいけない。

投げ出しちゃいけない。

何でそんな風に思ってしまったんだろう。

逃げたら、もっと惑わされ、かき乱され、ついに呑み込まれてしまう。

だから、媛子はありったけの意志の力をかき集め、受け止め、笑ったのだ。

でも、なんで?

何で御見留め役に話さなかったんだろう?

こんな思いをしてまで。

『御神娘』のプライド?

それも無い訳じゃない。

でも違う。

知られたくなかった。

何を?

媛子の背筋を酩酊感にも似た感覚が走り抜けていく。

まるで、黒々と濁った暗黒の淵に立たされたような不安感だ。

覗き込むだけでも、目が眩み、足がすくむ。

探っちゃダメだ。

考えちゃダメだ。

思うだけでもいけない。

そうじゃなきゃ、引き込まれてしまう。

理も非もない根源的な怖れがじわりとにじり寄ってくる。

媛子は恐怖を振り払うかのように大きく頭を振る。

今ここに来て欲しい。

碧空色の瞳で見つめて欲しい。

抱き締めて欲しい。

芳しい香に包まれたい。

理由なんか何だっていい。

お芝居だってかまわない。

媛子の手が無意識のうちに携帯電話を求めて動く。

しかし、ポケットを探る指先に何も触れてはくれない。

―――置いて来ちゃったんだ。

媛子が小さく頭を振る。

その時、媛子の太ももでパンと水滴が弾ける。

力なく天を仰ぐ媛子の頬を雨粒が叩く。

雨が降ってきたのだ。

しのつく雨の中、媛子はとぼとぼ歩いている。。

寒い。

どうしようもなく寒い。

アパートの近くまで戻ってきた媛子は何かに気付く。

部屋の前で誰かが立っている。

媛子の目に飛び込んできたのは、

制服姿の皇月の御神娘だった。

その手には、久しく目にすることの無かった、あの恐ろしい太刀が握られていた。 

心にわき上がってくるのは不安も脅えも瞬時に消し飛ばす圧倒的な恐怖だ。

瞳も表情も観る必要はない。

言葉も情も通じないほどに心を激しく滾らせているのがありありと伝わってくる。

噴火直前の活火山か、スイッチの入った時限爆弾かのように。

誰よりも会いたかった人が、情け容赦のない死の使者としてそこに立っている。

媛子の本能が緊急警報をがなり立てる。

『御見留め役』の言ったとおりだ。

嵐が媛子を待っていた。

(十五)

雨と風と夜が織りなす舞台で、

媛子と千華音が対峙していた。

媛子の紅茶色の髪はぐしょぐしょに濡れ、

服はしどけなく乱れている。

履いていたサンダルは片一方しか残っておらず、靴下は泥水で黒く汚れている。

紫水晶色の大きな瞳一杯に、涙を溜めて媛子は震えている。

その痛々しい姿に、千華音の瞳が見開かれる。

……上手くいった。

媛子の理性が心の何処かで安堵のため息をつく。

咄嗟にサンダルを脱ぎ捨て、シャツの袖を掴み破いたのだ。

一瞬でいいから、滾り続ける千華音の激情を逸らしたかったのだ。

咄嗟のアドリブだった。

策も勝率も無かった。ただ閃きに懸けるしかなかったのだ。

遠雷が轟く。

黒髪の少女の顔から血の気が引いていき、その手がゆっくりと太刀の束へと伸びていく。

次の瞬間に、激情の刃が鞘走り、『日ノ宮の御神娘』は終わりを告げるだろう。

嵐は治まってなどいない。

早く。

次を。

次の手を。

本能に突き飛ばされるように、媛子は次の行動に出ていた。

茶色の髪の少女が震える唇を開く。

「なくしちゃった。」

「!?」

再び、黒髪の少女の顔色が変わる。

「宝物、なくしちゃった。」

海辺のガラス玉、千華音がくれた思い出の品。

媛子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。

「せっかく……せっかく。」

わあわあと声を上げて泣き出す。

恥も外聞もなく、ただの幼子のように。

抵抗も抗弁も弁解も通用しない。

だから、何もかも投げ出して、『皇月の御神娘』に全てをあずけてしまう。

千華音が驚きに目を見開く。

ほんの一瞬、冷酷非情な御神娘の色が揺らぎ、針で突いたほどの小さな穴が開く。

ここだ!

媛子は千華音の胸に飛び込んだ。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね。」

ただ千華音に縋り付き、その豊かな胸に縋るように身をあずける。

「わぁぁぁん……。」

しゃくり上げながら顔を強く押しつける。

絡みつく濡れた髪と重なる肌。

そして涙の熱さが、『皇月の御神娘』の殺意を溶かしてしまうように。

千華音の両腕が動き、花弁を包むかのように優しく媛子を抱き留める。

頼もしくて芳しい『一番大切な人』の腕だ。

…………やった……。

生き延びた。

『日ノ宮の御神娘』の理性が安堵のため息をもらす。

しかしその心にわき上がってきたのは、喜びだけではなかった。

黒くて苦い……得体の知れない何かもまた、媛子の心に広がっていったのだ。

―――どうして。

遠雷は鳴りやまず、雨は尚も激しく降りそそいでいた。

(十六)

静寂の中、媛子は使い慣れた蒲団の中で寝息を立てていた。

もちろん、本当に眠ってなどはいない。

五感を全力で張り巡らせ、吹き抜ける風のそよぎから、虫除け代わりに炊いているハーブの揺れまでも確かめようとしている。

皇月千華音は一人ベランダに出て月を仰いでいる。

何もかも上手く進んでいる。

『皇月の御神娘』から千華音ちゃんに戻った相手を部屋に引っ張り込んだ。

『千華音ちゃん』相手なら、完全に媛子の土俵だ。

タオルを取り違えるふりをして腕を掴んであげた。

並んで映画を観ながら、思い切り身体をすり寄せた。

制服が皺になるからとサイズが合わない予備のパジャマを押しつけた。

だめ押しのつもりで、寝惚けたふりをして千華音の眠る蒲団に潜り込んだ。

面白いように打つ手打つ手がはまり、そのたびに『千華音ちゃん』は万華鏡のようにくるくると色を変えてくれた。

ガラスの壁はもうどこにも無くて、

綺麗で優しいけど、何処か世慣れていない―――大好きな人を目の前にした―――十五歳の女の子が一人いるだけだった。

もう一息だ。

『皇月の御神娘』の中に『千華音ちゃん』はしっかりと根を下ろしている。

もうすぐ身も心も『私の一番大切な人』になってくれる。

なのに―――。 

少しも心が躍らない。

勝利はもう目の前だというのに。

それどころか、あの雨の中で感じた胸の奥の苦い何かが、ジクジクと胸の奥を浸食し続けている。

突然の恐怖に強烈なショックを感じたから……あの時はそう思った。

でも違う。

だったら何故―――。

また心がぐらぐらと揺らぐ。

寒気を伴った酩酊感。

探りたくない。

考えたくない。

思いたくない。

何かを正面から見つめるのを恐れて、目を背けようとしている媛子がいる。

ダメ!

媛子の心が、叱咤の叫びを上げる。

考えたくないなんて。

調べて、考えて、答えを出す。 

それが媛子の武器。

日ノ宮の御神娘の全て。

なのに……。

そんな内なる声は、何処か張りが無く、鋭さも欠けていた。

媛子は知らず知らずのうちに、蒲団の端を握り締めていた。

夜の闇に怯える子供のように。

その時―――。

ゆっくりとベランダの戸が開き。

『皇月の御神娘』が入ってきた

媛子は刃と対峙していた。

月光を背にした生きた白刃『皇月の御神娘』。

そこには『千華音ちゃん』など髪一筋ほども残ってはいない。

ただ『皇月の御神娘』がいるだけだ。

今度は部屋の前でのような『滾り』は無い。

冴え冴えと輝く凍てついた決意だけがある。

媛子の心の警報が激しく鳴り響く。

これは初めてあったあの時と同じ……いや、それ以上のものだ。

どんなに上手く進んでいようと、突発的事故の起こる可能性を零にはできない。

だから油断はするな。何時如何なる時も備えておけ。

何度も何度も何度も。心の中でシミュレーションを繰り返し、覚悟を積み上げてきた。

でも、そんなもの今ここにある現実の前では何の役にも立ちはしない。

静かなるハリケーン。

真っ青な業火。

鎧も楯も、一瞬ではぎ取られてしまった。

幾千幾万にも切り刻まれた一秒が、媛子を容赦なく責め苛む。

今にも心臓が破裂しそうだ。

心の警報がかってないほどに荒れ狂っている中、こうやって静かに寝息を立てているお芝居ができているのが、すでに奇跡みたいなものだ。

例え恐怖で凍り付いているのと大差ないにしてもだ。

どうしよう!?

どうしよう!

どうしよう!??

油断してたつもりはなかったのに。

それでも―――。

自分に意識が向きすぎていた。

そこに隙があったんだ。

太刀の切っ先が媛子に迫る。

何も思いつかない。

何もできない。

絶望の触手が媛子の自我を絡め取り、呑み込んでいく。

もう―――。

終わりだ。

その瞬間、

何故か太刀が止まる。

黒髪が解け、媛子の顔にはらりとかかるのが分かる。

この場に不似合いな甘い芳香が、媛子の鼻孔を擽る。

「媛子。」

天界の音楽にも似た妙なる囁き。

鼓動が、高鳴る。

唇が迫ってくる。

息づかいと、肌の温もりと。

こんな時なのに、何故か胸の奥が熱くなっていくのが分かる。

恐怖を超えたものが、計算を超えたものが、何かを動かしている。

恐怖より、戸惑いより、もっともっと大きな、何かが。

媛子が目を開く。

千華音の姿が目に飛び込んでくる。

桜色に上気した頬。

潤んだ瞳。

今まで目にしたことのない、『女の子』の皇月千華音。

千華音ちゃんが―――。

「千華音ちゃん。」

媛子の中で、何かが弾けた。

その手が、あらん限りの力をこめて千華音をはね除ける。

何かが壊れた。

静寂の部屋の中で、媛子は惚けたように力なく座り込んでいる。

部屋に千華音の姿はない。飛び出していってしまった。

何をしてしまったんだろう。

千華音の唇が迫って。

そして媛子は、

なんであんな事をしちゃったんだろう?

分からない。

たとえば、あのまま受け入れたほうが良かったかも知れない。

匙加減なんてあとからどうとでもできるのだから。

たとえば、『寝惚けていた』とか『何もおぼえていない』とか。

むしろそうした方が媛子にとって万事都合が良かったはずだ。

この夜の一幕は、媛子にとって決定的な切り札になるはずなのに。

なのになんであんな事をしたんだろう?

下手をすれば、今まで積み上げて来たものが全部台無しになってしまったかも知れないのに。

演出のミス。

この場合、ベストな作戦は―――。

『御神娘』の心理状態をしっかり読み取って―――。

そして―――。

そして―――。

熱い雫が媛子の掌を叩く。

その熱さが、ひりひりと肌に染みていく。

「もう……やだ……。」

唇から呟きがこぼれ落ちる。

イヤだ。

こんなのもう沢山。

演出とか作戦とか誤魔化している自分が。

情報とか分析とか、答え合わせばかりしている自分が。

本当から目を背けて、逃げ回ってばかりいる自分が。

大嫌いだ。

心の何処かにいるなにか?

そんなの、本当は全部分かってる。

分かってるけど、分かりたくなかった。

分かったら、全部終わってしまうから。

必死の思いで積み重ねてきた『日ノ宮媛子』の十五年が壊れてしまうから。

だから―――見るのも、思うのも、考えるのもいやだった。

私は知ってる。

千華音の笑顔がどうして眩しいのか?

どうして『お付き合い』の前の夜に眠れなくなってしまうのか?

どうして一人で部屋にいる時に、今日の出来事を反芻してしまうのか?

どうして、そんな自分を好ましく思ってしまうのか?

手を繋いだ時、抱き締められた時、こんなに身も心も痺れてしまうのは、何故なのか?

これが友達だから?

たったひとりの友達だから?

そうなのかな?

でも―――きっと、違う。

だって、私はあの時。

刃を突き立てられそうになったあの時。

キスして欲しいって思った。

心からそう思った。

だから。

計算はいやだった。

本当にしたかった。

大切な人との初めてだから。

だから、できなかったんだ。

もういい。

もうお芝居はやめよう。

ウソも誤魔化しももういらない。

逃げ回ってたって、意味なんか無い。

認めなきゃいけない。

苦しくても。辛くても。

私は―――。

千華音ちゃんと同じ。

私も千華音ちゃんが好き。

大好きなんだ。

『お付き合い』じゃなくて、友達じゃなくて、そういう意味での好き。

愛してるんだ。

他の誰が、私のために他の誰が駆けつけてくれるだろう?

他の誰が、私に笑ってくれるだろう?

他の誰が私の手を引いてくれたろう?

他の誰が泣いている私を黙ってただ抱き締めてくれるだろう。

他の誰が私にだけ、まっさらな素顔を見せてくれるだろう。

他の誰が私に……。

くちづけをくれるだろうか?

沢山見続けた映画と同じだ。

気持ちは壁を越える。

境遇も、宿命も、女の子の壁だって。

そして―――。

私は、大好きな人を。

一番大切な人を―――。

あんなに優しくて、綺麗で、素直な人を。

騙して、騙して、騙して、

そして……この手で殺すんだ。

知りたくなかった。

分かりたくなかった。

初めて本当を知ったとき、それは想いの死であり、終わりだったなんて。

十五年間、積み重ね、信じていた事が、音を立てて崩れ去っていく。

その破片は刃の雨となって、媛子の心を切り刻み、責め苛む。

媛子の目から涙が溢れ出す。

ひどい。

こんなの、ひどすぎる。

なんという業だろう。

なんという罰だろう。

涙は次から次へと溢れ続けて―――。

ついに媛子は、幼子のように泣き始めた。

イヤだ。

イヤだ。

イヤだ。

そんなのイヤだ。

千華音ちゃんを、この手にかけるなんて。

絶対にイヤだ。

媛子は、泣き続けた。

何度となく流してきた計算づくのそれとはまったく違う。

喜びと痛みと哀しみに満ちた、苦い涙だった。

(十七)

虚ろな時間が流れる。

学校も。

バイトも。

ただ淡々とこなし続けた。

報告書には、万事順調と記入を続ける。

千華音からの連絡もない。

意欲とか気力とかが、どこからも沸いてこない。ただ刻が流れ去っていく。

なんとかしなきゃ。と思うのだけれど。

心はまるで霧に閉ざされたようで。

媛子の心は動くのをやめようとしていた。

もういい。

このまま流されてしまおう。 

『御魂鎮めの日』に二人で戦って。

そして―――。

『日之宮の御神娘』が死ねばいい。

何の償いにもならないけれど。媛子にできることは、それくらいだから。

日之宮の家のみんなには悪いけど。

本当に悪いけど……。

杜束島も、千華音ちゃんも助かる。

最後には、そんな風に考えて終わりにしてしまう。

でも、しかたないよ。

私は、最低なんだから。

そうやって自分の心をざくざくと削るたびに、心が少しだけ軽くなる。

このままどんどん削っていって、何もかも無くなってしまえればいいのに。

一日……一日……ただずるずると過ぎていく。

そんなある日―――。

媛子は無意識に携帯を開いていた。

ただ気付くと『メール』の送信画面を開いていた。

送り先には、皇月千華音のアドレスがあった。

でも……。

何を書けばいい?

「会いたい」

「ごめんね」

「話したいことがある」

どれも違う。

何も思いつかないのに。

指はひとりでに送信ボタンを押してしまっていた。

私、何でこんな事してるんだろう。

戸惑いながらも、心の何処かで思っている。

これだけで千華音ちゃんは駆けつけてくれるんじゃないかと。

何も言わずに媛子を抱き締めて、許してくれるんじゃないか。

そんなありえないことを期待している。

ひどい。

本当にひどい……私。

こんなになってまで、隠し事をしたいなんて。

何もしてあげてないのに。助けてだけ欲しいの?

その脳裏を、衝撃の稲妻が貫く。

心に音を立てて、亀裂が入る。

本当に……いいの?

ウソをついたまま。

騙し続けたまま。

このまま終わりにするの?

私のことを好きでいてくれる千華音ちゃんに、全てを投げ出して、私だけ楽になるの?

『一番大切な人』の返り血に塗れたまま、生きていけって言うの?

心をズタズタにしておいて、私だけ……一人で逝くつもりなの?

そんなの。

そんなのだめ。

絶対にダメ。

なら、どうするの?

だから―――。

ウソを本当にしよう。

ここからは本当に、『一番大切な人』のために、千華音ちゃんのために、日之宮媛子として生きよう。

島にも、日之宮の家にも、大蛇神にも、そして千華音にも頼れない。たった一人の闘いをするんだ。

何もかも今まで通り、計画通りに。

たったひとつ違うのは、媛子の決意。

千華音ちゃんを助けるために殺す。

偽りの死を、あげるんだ。

そして、『御神娘』の運命から助け出してあげる。

密やかに。速やかに。

これまで通りのお芝居のふりを続けながら、全てを積み上げて行かなければ。

騙す相手は媛子を取り巻く世界の全てだ。

生まれ育った故郷、杜束島を。

万感の期待を込めて、媛子を送り出した日之宮の家を。

あの抜け目ない、御見留め役を。

いと尊き、大蛇神様を。  

そして千華音ちゃんを。

欺くのだ。

私に……そんなこと、できるの?

たった一人で。

もう誰にも助けてはもらえない。

一人で調べ、一人で考え、一人で決めなきゃいけない。

ただ一人、小舟で嵐の海に乗り出すようなものだ。

もう誰にも頼れない。どこへも逃げられない。

そう思うだけでも、身体が震え出す。

押し寄せる不安と恐怖に押しつぶされそうなのに。

無理だ。

できっこない。

でも―――。

やらなきゃ。

やらなきゃいけない。

だって、世界でただ一人、私だけが千華音ちゃんの為に闘えるんだから。

殺しの罪を背負うのは私一人でいい。

泣くのも苦しむのも、全部終わった後でいい。

自分を鞭打ち続けながら、媛子は折れそうな気持ちを懸命に支え続ける。

そして生まれて初めて祈る。大蛇神様でないもっともっと大きな何かに。

助けて下さい。

何でもします。

地獄に堕ちたってかまいません。

私に、償いをさせてください。

私の大好きな人を、一番大切な人を殺させないで下さい。

助けて下さい。

どうか―――。

(十八)

媛子は『御神娘』の日常に還っていった。

登校し、バイトもこなした。

日之宮の九蛇卵との定時連絡も欠かさず取った。

芳香と指圧の技の研究と鍛錬にも更に熱を入れた。

傍目には何も変わっては見えない。

ただ、『お付き合い』が無くなっただけだ。

訝しむ日之宮の家には、作戦の仕上げであると説明し、丸め込んだ。

会いたい。

でも、今はまだ会えない。

会うなら、きっちりと媛子自身の気持ちを立て直してから。そうでなければいけない。

今の自分はあまりにも脆くて弱すぎるから。

でないと―――本当に大切なものが壊れてしまう。

媛子は心に大穴が空いたような虚しさを、そんな決意で埋め立て埋め立て時間を過ごしていく。

千華音から媛子にメールが届いたのはそんな時だった。

書かれていたのは、ただ一言

『会いたい』

『何時に』も。『何処で』もない。

ただ『会いたい』……と。

たった四文字のメールが涙で滲む。

未来なんか無いと決めたはずの相手に合うだけのことなのに。

会ってもただ傷付けるだけなのに。

それでも。

媛子の目からぼろぼろと涙が溢れてくる。

暖かさと、切なさと、苦い痛みと、そして

……喜びで。

悩み、苦しみ、足掻き抜いてきた二週間。

なんて長かったんだろう。

媛子は想わず携帯電話を抱き締める。

いけない。

泣きはらした目なんかで会いに行っちゃダメなんだから。

媛子はパンと頬を張って、萎えそうな心に喝を入れる。

踵を返し、歩き出す。

まずはたっぷり湯を張ったお風呂に入ろう。

その後はアロマとマッサージ。

精一杯、ぴかぴかに『日之宮媛子』を磨こう。

いつ、どこに行けばいいのかな。

メールなり電話なりで確認すればいいだけのことだけれど。

媛子にはそのつもりはなかった。

そんな必要はないのだから。

私は、ううん千華音ちゃんは、どこで会いたいだろうかと……考えればいい。

思い出の場所は沢山あるけれど。

二人の再会に相応しい場所は、きっと……。

昼下がりの商店街を媛子が、人込みを縫って歩を進めている。

早足というより小走りに近い。

スカートの裾が大きく揺れるのも気にならない。

ただ、もどかしい。

待ちきれない。

会える。

それは、きっとここなんだ。

人込みの中、待ち焦がれていた人影が見える。

すらりと伸びた手足。

流れる濡れ羽色の黒髪。

碧空色の瞳。

その人が振り返る。

「媛子。」

「あ……!?」

案の定、媛子の足下が縺れ、躓く。

前のめりになった媛子の身体を、千華音は咄嗟に抱き留める。

「あ……。」

媛子の頬が羞恥に赤く染まる。

帰ってきたんだ。

世界でただ一人、媛子を受け止めてくれるその胸(ばしょ)へ。

温かい胸と優しい腕と、芳しい千華音ちゃんの香が、媛子を包み込んでくれる。

そこは運命の場所だった。

場末の古びたゲームセンター、そのプリクラの前で。

(十九)

初秋の公園を二人で歩いている。

夏の名残を感じさせる眩しい日射しと、水の上を渡るそよ風が心地いい。

絶好の『お付き合い』日和の筈なのだが。

二人の間に言葉はない。

行く宛も決めてはいない。

ただ、なんとなく並んで歩いている。

千華音の容姿を別にすれば、なんのことはない日常的な光景だ。

しかし、そんな様相とは裏腹に、媛子の胸の中は揺らぎ続けている。

出会ったときの熱い興奮はあっという間に過ぎ去り、心にストンと隙間ができてしまったかのような感じだ。

怖れでも、不安でもない。

まるで雲の上を歩いているような……とにかく落ち着かない。

話題は頭の中でぐるぐると巡っているのに、言葉が出てこない。

あんなにウソばかりついてきたのに。

小指の先が千華音の上着の袖を掠める。

たかだか、そのくらいのことで心臓が破裂しそうになる。

何も浮かばない訳じゃない。

『ファッション』

『占い』

『好きな食べ物』

『お付き合い』のパターンは無限にある。

なのに言葉が出ない。

苦しくて。

哀しいんだ。

千華音にウソをつくのが。

あんなにウソばかりついてきたくせに。

これからだってそうするしかないくせに。

知らなかった。

『一番大切な人』に本当のことを隠し続けることが、そして永遠に言えないことが……こんなにも苦しいなんて。

話したい。

千華音ちゃんの胸に飛び込んで、全てを打ち明けて、泣きながら許しを請いたい。

ううん。許してもらおうなんて思わない。

ただ本当のことが言えればいい。

ごめんなさいと心から謝れたら。

違う。

そんな贅沢、私に許されるわけがない。

何度も何度も心に誓ってるのに。

でも、千華音を前にしたら、その決意がぐらついてしまう。

甘えたい気持ちが抑えられない。

いつもみたいに、抱き留めてもらいたい。

なんてだらしないんだろう。

私―――。

「ねえ、媛子。」

千華音がぽつりと呟く。

「な、何? 千華音ちゃん。」

媛子はあらん限りの力を振り絞って答える。

声が震えないように。

泣き出さないように。

いつもの『日之宮媛子』でいるために。

「今日は、あたしが予定を決めていいかしら?」

「?」

「いつも、媛子に決めて貰ってばかりいたでしょう? だから今日は私が決めたいの。」

「……。」

突然の千華音からの提案に、媛子は目を丸くする。

そう言えば、そうだったっけ。

少なくとも、きっかけはいつだって媛子からだった。

「どうかしら?」

今日の千華音ちゃんは少し違う。

『憧れの先輩』でも『しっかり者の姉』でも無い。

導くのでもなく、引き出すのでもなく私の答えを待っていてくれてる。

私のために、千華音ちゃんが……。

こんな些細な事だけでも、媛子は心に灯火が浮かんだような、そんな気持ちになれる。

ふつふつと勇気が沸いてくる。

嵐の海にこぎ出す力に変わる、勇気。

辛くても、苦しくても、私がちゃんとやろう。

心の震えが、治まっていく。

「……うん。」

媛子は頷く。

「でも……本当にそれでいいのかな? 千華音ちゃん。」 

「ええ、そうしたいの。」 

千華音が手を差し伸べる。

「じゃあ、今日はぜーんぶ千華音ちゃんにお任せだね。」

そう言って、媛子はおずおずと手を伸ばす。

たったそれだけのことで胸が、張り裂けそうだ。

今までのどんなお付き合いよりも、ドキドキしてしまうのは、お芝居じゃないから。

本当の媛子だから。

まるでダンスを誘われたみたいな高揚感と不安感。

揺らぎの中に喜びがあり。

喜びの中に揺らぎがある。

媛子はしみじみと思う。

これが本物。

握るのも、握られるのも同じくらいステキで。ドキドキする。

これが女の子で。

これが初めてなんだなぁ。

やっぱり初めては最高に楽しいんだ。

千華音と媛子の手が重なり。

きゅっと強く繋がれる。

(二十)

千華音に手を引かれるように自然公園の池の端を歩いている。

なんというかもの凄くぎこちない。

媛子だけではない、千華音も。

普段の『お付き合い』でなら仕草や眼差しや息づかいから感じ取れる、『凛』としていて『粋』な何かが見あたらない。

さしてはしゃぎもせずにただ並んで歩く二人の女の子は、凄く悩んでいたり、ていうか変に見えるんじゃないか?

そんなことにまで気になってしまう。

でも―――。

「少し、暑くない?」

ぽつりと千華音が呟く。

「う……うん。そうだね。」

「飲み物を買ってくるわね。」

「う……うん。」

千華音が媛子の側を離れる。

手摺りの欄干にもたれながら、媛子はぼんやりと想う。

ホントにもたもたして、もどかしくて、落ち着かない。

でも―――。

いつもより空は高く青い。

いつもよりお日様は眩しい。

いつもより風が気持ちいい。

口元に微笑みが浮かぶ。

いくら手際が悪くたって。

きっと、ウソがまざってないから。

媛子は今日このまま身を任せてみようかと考える。

そう、今日一日くらい。

心から笑って終われる一日があっても……。

ああ……またぐらぐらしちゃってる。

そんなの私の我が儘だ。

求めちゃいけない。欲しがっちゃダメだ。

そんなこと分かってる。

でも、心の何処かに願わずにはいられない自分がいる。

そんな一日が欲しいと。

その時、媛子の傍らで声が聞こえてきた。

振り返ってみれば、繋がれたボートの舳先で子猫が鳴いているのだ。

猫か。千華音ちゃんも好きだったかな?

口元に微笑みが浮かぶ。

「おいで。」

何気なく手を伸ばした拍子に。

媛子の身体は大きく傾いた。

そして千華音と媛子の部屋に。

媛子が池に墜ちて大騒ぎになり、映画もスイーツもウインドウショッピングも、何一つできずに。

媛子の部屋に戻って来てしまった。

お茶を煎れながら、媛子は小さくため息をつく。

せっかくの特別な一日なのに、こんなことになるなんて。

いっぱいいっぱいしてほしいことがあった。いっしょにしたいことも沢山あったのに。

なのに、こんなドタバタになるなんて。

別に派手なことじゃなくたってよかったのに。

例えば、千華音ちゃんの部屋に連れてってもらうとか。

いってみたい。

今からでもお願いしてみようかな。

どんな顔するかな?

だめだめ、媛子は頭を振る。

そんなのはルール違反。

今日は千華音ちゃんに決めてもらう日。

だから、今日は心で祈るだけにしよう。

それに―――。

まだ特別な日は終わったわけじゃない。

しょげてるなんてもったいなさ過ぎる。

千華音ちゃんと過ごす時間は、それだけで特別なんだから。

いつか日記に悪意を込めて書き殴ったことが、媛子の本当になってしまっている。

しかし、それは媛子にとって、少しも嫌なことではなかった。

媛子は『心の神様』に祈りを捧げる。

私、頑張ります。逃げません。

何があってもきちんとやるべき事をやりとげて見せます。

だから今日だけは。

たった一日でいいんです。

まっさらな私たちのだけの時間を。

『日之宮の御神娘』じゃあない。

『日之宮媛子』の一日を。

私に下さい。

心からの微笑みをうかべ、媛子は部屋を振り返る。

さあ、なにをしてもらおう?

何を話そう?

だが、その瞳に飛び込んできたのは、立ち尽くす千華音の姿だった。

その手で開かれているのは。

あれは? 

媛子の心が瞬時に凍り付く。

稲妻に撃たれたような衝撃が。

舌は凍り付いたように動かず。

足は根が生えたように動かない。

絶望と悲哀が猛吹雪となって媛子に襲いかかる。

ああ、やっぱりそうなんだ。

神様はちゃんと全部お見通しだ。

私みたいな人でなしの嘘つきに、『特別な一日』をお願いする資格なんてなかったんだ。

一番望まない形での終わり。

それが私にはお似合いなんだ。

ダメ。

狼狽えてる暇なんてない。

嘆いてる場合じゃない。

諦めるなんて絶対出来ない。

早く。

早くしないと。

千華音ちゃんに気付かれてしまう。そうなったら全てが終わる。

言葉が出ない。

力が入らない。

でも、やらなきゃ。

それでも、クローゼットの奥に隠していた小太刀を手に取る。

一度だって千華音に見せたことはない、媛子の得物だ。

衝撃に立ち尽くす千華音に、媛子は渾身の力を振り絞って言葉の鞭を叩き付けてる。

「見ちゃったんだ。」

千華音がゆっくりと振り返る。

ああ―――。

千華音ちゃん……。

完璧な女神のような美貌が。

なんで泣いているみたいに見えるんだろう……。

そんな顔見たくなかったよ。

今日だけは笑っていて欲しかった。

せめて、今日だけは―――。

心が引き裂かれ、見えない血が音を立てて溢れ出すのが分かる。 

このまま何もかも流れ出て、空っぽになって、本当に死んでしまえばどんなに楽だろう。

でも……。

私は言わなくちゃいけない。

言わなくちゃ。

かき消えそうになる決意を振り絞って、私は唇を開く。

「ちょっと早い気もするけど、仕方ないね。」

「……。」

「始めよう、御霊鎮めの儀。」

そして媛子は氷の笑みを浮かべる。

「私を殺していいよ。千華音ちゃん。」

(二十一)

西日差す秋の午後の部屋で―――。

千華音が最後の媛子メモを読み終えた。

時に乱れ、時に涙で滲んでいた懐かしい文字たち。

その全てが千華音の知らなかった媛子を鮮やかに描き出していた。

『日之宮の御神娘』

『刺客』

『女子高生、日之宮媛子』

『十六歳の女の子』

『その本心』

様々な媛子たちが、うねり、絡み合い、混ざり合って、一つになっていたのだ。

十五年間の全てを懸けて向かい合ってきた『日之宮の御神娘』。

抱きしめたいとも思った。

触れられないとも思った。

砕いてしまおうとも思った。

生まれて初めて心の底から愛おしいと思った相手。

それなのに―――。

千華音は媛子の全てを知っているわけではなかった。

矛盾を抱え、苦しみ、悩み、闘って、そして進むべき道を選んでいたのだ。

千華音と同じように―――。

強い思いを抱き、足掻き、彷徨い、そして立ち上がって、熱い決意を持って同じ道を選んで……。

―――そうなの?

同じかしら?

千華音は己に問いかける。

でも、私はここまで強く媛子のことを考えてあげたの?

あの娘の事をどれほど想っていたの?

媛子が私のことを思ってくれているほどに。

日之宮媛子を。

そうか。

やっと分かった。

私が生き延びて、今、ここいる意味が。

私は―――。

まだ終わってなんかいなかった。

私は幽霊なんかじゃない。

だから私は帰ってきた。

切々と綴られていた媛子の想いは、こう締めくくられていた。

『サヨナラ、私の一番大切な人。

ひどいことばっかりしてごめんなさい。

ありがとう。

沢山見つめてくれて。

沢山話してくれて。

沢山抱き締めてくれて。

ずっと。ずっと。愛してるよ。』

(二十二)

杜束島の夜は更け、島民たちの大半が寝静まった秋の夜に。

誰も知らない秘密の大社で、最後の神事が行われようとしていた。

大蛇神様の社の一角に建てられた小さな湯殿で日之宮媛子が湯浴みを行っていた。

清き九人の乙女たちによって、大蛇神様の住まう三和山の泉から汲み上げられた霊水を焚いた聖なる湯だ。

湯船に身を沈めながら媛子はぼんやりと想う。

小ぶりな胸とくびれの足りない腰と柔らかい二の腕。

千華音ちゃんには全然かないっこない私の身体。

もうすぐ誰かのものになってしまう身体。

どうせなら、一番好きな人に、全部あげてしまえれば良かったのにな。

そうお願いしたら千華音ちゃんはどう思ったろう?

『御神娘』に抱かれる『御神娘』。

きっと前代未聞の筈だ。

なんて応えてくれただろう?

嗤っただろうか?

優しく窘めてくれただろうか?

ひょっとしたら軽蔑されたかも知れない。

でも、でも、もしかして。

本当に……。

媛子はそっと自分の身体を抱き締めてみる。

心に浮かぶのは大好きな千華音ちゃんの芳香に包まれる自分のイメージ。

それだけで媛子は恍惚とした想いに包まれる。

本当にそうなったら、どんなにか素敵だったろう。

千華音ちゃんは私なんかが相手でも少しは喜んでくれたのかな?

でも、そんなお願いはかなわない。

それが私にはふさわしい。あの人を裏切った私に、この手にかけた私には、心の中で願う資格さえないんだから。

一生届かぬものにただ焦がれ続ければいいんだ。

死んだって千華音ちゃんと同じ所には行かない。行けるわけ無い。

媛子はふと、自分の二の腕に視線を落とす。

肌に刻み込まれた切り傷の跡も癒え、随分と目立たなくなってきた。 

この跡は残るのかな?

できることなら、ずっとずっと消えないで残って欲しい。

これだけが、千華音ちゃんが媛子に残してくれたモノだから。

媛子は薄く微笑む。

ダメだよ。そんなの。

私にはいいものなんてなんにも残らなくていいんだ。なんにも。

そう決めてるのに。

何度も何度も、決めたのに。

まだこんなこと考えてしまうくらいぐらぐらしちゃってる。

ホントにダメだなぁ……私。

媛子は薄く笑った。

(二十三)

そして、『御霊鎮めの儀』の刻が来た。

『御神娘』が大蛇神様に生を授かりし日から十六年後の誕生日。

二人の御神娘が、大蛇神の名において刃を交える夜。

乙女と乙女は切り結んでいた。

剣の暴風となって襲ってくる千華音に媛子は、凌ぐことさえもままならず、いいように翻弄され続ける。

あの優しかった眼差しが。

媛子の手を引いて、しっかりと支えて、抱き留めてくれた腕が。

今は媛子を容赦なく、殴りつけ、引き裂き、切り刻む。

媛子はただなすがままに、いいように嬲られ続けているだけだ。

媛子はただ堪え忍びながら、機会を待つ。

これでいい。

もっと憎んで欲しい。

私が千華音ちゃんにしたことに比べれば、こんなの撫でられてるようなものだもの。

何倍も、何倍も、ひどいことをしたんだ。

だから全然大丈夫。

私はまだやれる。

計画は上手くいってるんだから。

千華音ちゃんとまともに闘ったら勝負は一瞬で終わっていた。

媛子を支える強い決意が。

『皇月千華音』の中に刻み込んだ『日之宮媛子』の日々―――たとえ、無意識下であったとしても―――が。

媛子の武器になるはずなのだ。

懸命に息を整えようとする媛子に向かって、千華音の太刀が唸る。

凄まじい剣圧に足下が縺れる。

よろめいた媛子の懐に千華音が飛び込んでくる。

左の手刀が一閃。

容赦のない追撃が媛子に決まる。

「!?」

媛子の身体が軽々と吹っ飛び、大地に叩き付けられる。

痛い。

口の中に土と血の味が広がる。

きっと何処か切れたんだ。

痛い。

苦しい。

倒れたい。

楽になりたい。

千華音ちゃんの手にかかって……このまま逝ってしまいたい……。

もうダメ……。

かき消えそうになる意識を、媛子は渾身の力でつなぎ止める。

もうダメ?

全然ダメじゃない。

私はまだ倒れたらダメなんだ。

絶対にいけないんだ。

終わってないんだから。

そして媛子は立ち上がる。

媛子はただ耐え、ただ待ち続ける。

ただ一瞬の来るかどうかすら定かではない―――勝機を。

『一番大切な人』のために。

その心だけを支えに、媛子は一心不乱に堪え耐え続ける。

耐えて。

耐えて。

耐え抜いて。

そして、その瞬間がついに来た。

ついに立てなくなった媛子に、千華音がとどめの太刀を放った。

その瞬間―――。

媛子の指先が音もなく疾った。

相手の命を断つツボに向かって。

呼吸も、心臓も止めてしまう仮死のツボだ。

届いて!

媛子の祈りにも似た心の叫びが―――。

そして、決着は付いた。

千華音は地に倒れ伏して、動かない。

ただ媛子だけが知っている。

必殺の太刀を避けられたのは自分の力では無いことを。

千華音の太刀筋が、最後の最後、紙一重の差で遅れたのだ。

助けて―――くれた?

そして最後の瞬間、千華音の瞳には、間違いなく自分の姿が映っていたことを。

その瞳から失われていく光の意味を。

どうして?

そんな目で……私のこと。

私のこと、憎んでなかったの?

その眼差しがどんな攻撃よりも、激しく媛子の心に突き刺さり、真っ二つに引き裂く。

そうして、媛子の想い人は消えた。永遠に。

(二十四)

杜束島の夜。

黒い森に包まれた大蛇神の社に妙なる雅楽の音が響き渡る

女神祇官の先導の下、しずしずと歩を進めていく一対のひな人形のように雅やかな二つの影があった

白装束姿の『御見留め役』、近江和双磨。

同じく白装束姿の日之宮の御神娘、日之宮媛子。

媛子の肉体の回復を待っていた九那杜の儀が、今宵、とり行われる。

奉天魂を果たした栄えある大蛇神様の『御神娘』が『御見留め役』の男へと嫁ぐのだ。

大蛇神からの賜り物、神の娘と『人』が結ばれるのだ。

日之宮の家は晴れて九頭蛇の一員となり、杜束島の陰から支配することが許されるのだ。

九重の廊下と九重の段を超えて、三人は大蛇神の御神前へとたどり着く。

恭しく大蛇神の御神体を拝した女神祇官が、朗々と祈り言を唱え始める。

「根の大国に坐し坐して、淡なる杜束島に御働きを現したもう大蛇神。

九重の天、九重の嶺、九重の潮、万邦根源の祖の御親にして一切を産み、一切を育て、

諸々の夜刀神を御支配あらせたまう大神なれば……。」

高く鋭く、何処か金属音めいた荘厳な響きが、抜け殻の媛子の身体を通り抜けていく。

もはや大蛇神への敬虔な気持ちなど欠片も残ってはいない。

その胸を満たしているのは事を成し遂げた満足感と、失ったものへの寂寥感と、哀しみだけで満たされていた。

媛子は考えるでもなく考える。

私はどうしてこんなことをしているのかな?

自分のとなりにいるのはなんであの人じゃないのかな?

こんなに大好きなのに―――。

なんで―――。

ううん。違う。

これでいい。

この苦い空しさを抱いたまま、私は、あの人のかわりに、死んだように生きるんだ。

こうやってぐらぐら、くよくよしながら、苦しめばいいんだ。

二度と心から笑わなくていい。

涙は心で流し続ければいい。

媛子は歩を進めていく。

ふっと、その鼻孔を不可思議な香が擽る。

風に乗って運ばれてくる潮の匂いと、花の香のような淡い芳香。

何の花だろう?

この季節にこんな香の花が咲くのだろうか?

その匂いが、媛子の中に潜む何かを呼び覚ます。

こんなこと、前にもあったような。

媛子の心は答えを求めて記憶の森へと入っていく。

ああ、思い出した。

『私の一番大切な人』に初めて会った―――本当の日のことを。

(二十五)

それは初秋の頃。

媛子は鍛錬にかこつけて日之宮の訓練場を抜け出していた。

本当は固く固く禁じられていたけれど、どうしても『皇月の御神娘』を一度この目で見ておきたくて、こっそりと部屋を抜け出し、探してまわったのだ。

九蛇卵の集めてきた情報をこっそり盗み見てはいたものの、幼い媛子がそう簡単に見付けられるはずもなく、半ば諦めかけていたその時、

媛子は、ふっ……と不可思議な芳香を嗅ぎ取った。

花なんか咲いてないはずの場所なのに。

好奇心に駆られ辺りを伺った媛子は、ついに見つけたのだ。

人気のない浜辺の松並木の陰で、一人すすり泣く女の子の姿を。

これは、この女の子の匂いなんだ。

野外の訓練用と思われる女の子らしさの欠片もない道着を纏って。

すらりと伸びた手足、日の光を浴びて輝く黒髪。碧空色の瞳。

よく見ると、その剥き出しの肌には、無数の擦り傷や痣が残っている。

厳しい特訓か何かで傷を負ったのだろう。

だから、誰にも見られぬように、悔しさと痛みを堪えて泣いていたのだ。

でも、そんな姿でさえ、とても気高く。眩しく。美しく見えた。

まるで―――。

天女様みたいだ。

思わず見とれていた媛子に、気付いた『皇月の御神娘』は、手の甲でぐいぐいと涙を拭いながら立ち上がる。

媛子をきっと見据えると、

「あなた、何処の子?」

その表情にも声にも、さっきまで泣いていた子とは思えない隣とした張りと艶が感じられた。

凛々しい姿に、軽い酩酊感すら憶える。

とっても気が強そうだなぁ……と媛子は思う。

媛子は『皇月千華音』を知っているが、相手はこちらが誰かを知らないのだから。

「……。」

媛子は千華音に答えない。答えられる筈もなかった。

懸命にウソを探している間に、『皇月の御神娘』の方が答えを出してくれた。

「この辺の娘なの?」

助かった。

媛子はこくりと頷く。

「このことは誰にも言っては駄目よ。」

媛子はまた頷く

「絶対よ。」

頷く。

『皇月の御神娘』は身を翻し、走り去っていった。

一人取り残された媛子は、緊張を解きほぐすかのように大きく息を吐いた。

ほんの少しの時間だったのに、びりびりするような緊張があった。

媛子は落ち着きを取り戻そうと、精一杯息を吸い込む。

『皇月の御神娘』の残り香が鼻孔を擽るのを感じた。

(二十六)

高鳴る雅楽の調べが媛子を思い出の浜辺から、寒々とした現実の夜へと引き戻す。

可笑しいなぁ……。

こんな時になんでこんなこと思い出したんだろう?

こういうときは二人で過ごした時間のことを思い返すものなんじゃないのかな。

二人の初めてには―――。

優しい言葉も、微笑みも、胸の高鳴りもなかった。

運命の出会いなんてとても呼べそうにない味も素っ気もない代物。

でも、私らしい。

最初から最後まで嘘つきだったんだ。

ホントに。

ホントに、ごめんね。

神祇官の祝詞が終わっていた。

九那杜の儀は頂点を迎えようとしていた。

三宝を捧げた二組の乙女がしずしずと二人の前に進み出る。

上に乗っているのは蛇の目模様の描かれた神盃。六角。そして蛇の模様が刻まれた神針。

『御見留め役』と『御神娘』が大蛇神様のご神前でかための神盃を交わすのだ。

誓約として神針で互いの指先を突き、血の雫を神盃に落とすと聞いている。

命の証である血のやり取りをすることにより、大蛇神の娘は人のもとへと下る。

乙女が神盃に御神酒を注ぐ。

媛子の手が清められた神針を取り、『御見留め役』の手を取る。

ひんやりと冷たい。夜そのもののような温度。

手の冷たい人は心が温かいなんて俗説があるけど、本当だろうか?

関係ないかな。

もう―――。

そんなことを考えながら神針の切っ先をを小指の腹に滑らせる。

ぷっくりと血の玉が浮かぶ。

血の玉が神盃へと落ち、一滴の夜が神盃の中に溶けて、消える。

媛子は恭しく神盃を捧げ持つ。

これを飲み干せば、媛子は『御神娘』では無くなる。

『大蛇神様』から神事を成し遂げた『杜束島』ヘの褒美(くだされもの)。

『九那杜』の妻となるのだ。

千華音ちゃんとの繋がりがまた一つ消えるんだ。

そう思うとき、諦めきっている筈の心が微かに疼く。

しかしそんな疼きなど関係なく、媛子の身体はからくり人形のように動いていく。

ゆっくりと神盃に唇を近付けていく。

その時―――。

突然、雅楽の調べが突然止んだ。

風の音も。

潮騒も。

島の生きとし生けるものが、いや、風が、海が、炎までも―――自然物までもが動きを止めたかのような静寂が辺りを包む。

何?

媛子の手が止まる。

その鼻孔を擽る微かな芳香。

絶対に間違えっこない。

世界でただ一つしかない。

大切な人のにおいだ。

媛子が顔を上げる。

社を見下ろす梢の上に、煌々と照る月を背に、彼女は立っていた。

皇月千華音。

そして、終わりのあとの物語が始まる。

(つづく)