(零)

大いなる蛇神の御社で。

少女と少女とが対峙していた。

今宵、この時、この場所で。

吹き抜ける風がかき鳴らす森の唄も。

遠く響いてくる潮騒の轟きも。

悠久の時を刻んだ御社が醸し出す荘厳な空気も。

木の香に満ちた懐かしい故郷の夜の匂いも。

九頭蛇たちの怒号も。

女神祇官のヒステリックな金切り声も。

為す術もなく立ち尽くす女官たちの姿も。

あわただしく動き出した九蛇卵たちの刺々しい気配も。

立ちはだかる『御観留め役』の姿さえも。

その五感から、この場のあらゆるものがはじき出されて。

ただ、お互いだけを見据えていた。

黒髪の少女が、紅茶色の髪の少女にすっと白魚の如き指を差し伸べる。

呼んでいるのだ。

碧空色の瞳が、紫水晶色の瞳と交差する。

そこに繰り広げられるのは。

幾万語にも勝る言葉無き語らい。

碧空色の瞳の輝きは。

放たれた矢のように。

暁の光のように。

闇を裂いて、真っ直ぐに。

ただ一人の相手の下へとたどり着く。

紫水晶色の瞳が、ほんの微かに潤む。

ほんの一瞬。

瞬き一つするほどの―――二人にとっての―――長い長い時が過ぎていく。

そして―――。

紅茶色の少女の脚が動いて、

一歩、二歩と、身を引いて行く。

まるで『御観留め役』の陰に身を潜めるかのように。

風が轟々と唸りを上げる。

聖なる場を穢された大蛇神様のすさぶ咆吼のように。

世界に音が戻ってくる。

神代の国から続く重々しい静寂と清冽な空気の支配する世界へ。

二人の舞台は壊れてしまったかのように。

しかし、黒髪の少女は差し伸べる手を引き戻そうとはしない。

それどころか黒髪の少女は悠然と歩を進めていく。

一歩、一歩、確かな足取りで。

その碧空色の瞳は揺るぎなく、ただ一人の想い人を捉えている。

紅茶色の髪の少女の唇が震えるように動く。

あらん限りの力で、言葉を紡ぎ出そうとしたとき、

その時―――

絶望の夜を引き裂くように。

誰かの悲鳴が上がった。

御社のあちこちから赤い何かが妖しくはい出してくる。

白き衣を纏い、悠然と舞い踊る赤い魔神。

炎があがったのだ。

(一)

炎はみるみるうちに燃え広がっていく。

神聖なる大蛇神の御社は、一面の白煙と炎の赤に塗りつぶされた。

列席者たちの悲鳴と逃げまどう足音が御社に木霊する。

床に転がるのは、うち捨てられた雅楽器と逃げまどう人々に踏み砕かれた神盃の残骸だ。

一刻も早く火を消し止めようと九蛇卵の者たちが走り回っているが、山奥故に給水も簡単ではない。

その上、数少ない防水桶も、裏からわき水を引いた水樋も何者かによって破壊されているのだ。

そもそも杜束島の影の支配者―――九頭蛇のものたちにとっては、大蛇神様の御社は―――般人は言うまでもなく―――九蛇卵の者たちすらめったに脚を踏み入れる事の許されない絶対の聖地。

このような事態になるなど、誰一人夢にも思ってはいなかった。

ましてそれが、『奉天魂』で大蛇神様に捧げられた筈の『皇月の御神娘』の手によってなどとは。

古の神話の理に支配された聖地が。

罵声と怒号とが飛び交う愚かしい狂想曲の舞台と化している。

炎と煙激しく踊り狂う中で、老いも若きも選ばれし者もそうでない者も。

誰もが狂乱し、誰もが震え上がる中、いつの間にか、三つの影が忽然と姿を消していた。

捧げ者になるはずだった乙女と。

根の国から帰ってきた少女と。

そして―――。

(二)

月が照っている。

見苦しい地上の狂騒など知らぬげに、満天の星々の供を従えて誇らしげに輝いている。

そんな月の下、走り抜ける二つの影の姿があった。

媛子の手を引いて走る千華音である。

夜を駆ける忍びのように速く、森の主たる獣のように速く。ただ速く。

とうとう息を切らせた媛子が激しく噎せ返る。

その声に弾かれたように、千華音の足が止まる。

「げほっ……。」

どことも知れぬ森の奥で―――。

媛子は力なく岩場にぺたんと腰を落とす。

あの騒ぎの中、傷どころか汚れの跡一つもない千華音に対し、媛子の白かった衣裳はあちこち裂けて、煤に塗れた顔に聖なる花嫁の面影はない。

体術に長けた千華音とは違い、肉体的素養は劣っている媛子なのだから。

まして、それが傷の癒えたばかりの身体であるならば、なおのことだ。

背を丸めて咳き込む媛子の背を何度も何度も優しく撫でさすりながら千華音は問いかける。

「大丈夫?」

媛子は激しく頭を振る。

千華音の表情が微かに曇る。

『御霊鎮めの儀』の夜、『棘』に身を任せ、媛子を傷付けたのは、他の誰でもない、皇月千華音なのだから。

「ごめんなさいね……無理をさせてしまって……苦しかったでしょう。」

『お付き合い』の日々を思わせる、たおやかな声と真摯な眼差し。

「でも安心して頂戴。この辺りはね、子供の頃から何度も走ってきた私の遊び場みたいなところだから。時間は稼げたとは思うわ。」

「……」

「何か欲しいものはある?」

と岩陰に手を伸ばす。

取り出されたのは小ぶりのザック。

もちろん奇跡でも、偶然でもない。密かに杜束島に潜入した千華音が密かに水や薬を用意していたもので、ここは逃走ルートの上に用意した潜伏ポイントの一つなのだ。

先輩のような、姉のような、万全の気遣い。

同じ月下に立つ姿だというのに、研ぎ澄まされた野生など欠片も感じさせない。

これが御社に火を放った少女と同一人物と、誰が思うだろう。

無論このまま終わるはずはない。

『九頭蛇』たちに、

『九蛇卵』の群れに、

そして、あの『御観留め役』に向けて、十二分に第六感の糸を張り巡らせながら、千華音の白魚の指が踊り、ザックのポケットからハンカチを取り出す。

新雪を想わせるシルク地から、夜の闇にほんのりとした薫りが溶けていく。

「……て」

媛子の口が動く。

吐き出されるのは吐息のような声にならない声。

「なに?」

千華音が媛子の声を聞き取ろうと身をかがめる。

「どうして!?」

お付き合いの時はただの一度も見せなかった。無垢で従順で初心、危なっかしい子犬のような女の子の仮面はどこにもなかった。

混じりけのない剥き出しの感情を、漲らせた。

「いっぱいいっぱい考えたんだよ、辛くて苦しくて何度も迷って、もう何回もやめようって思った。

やりたくなかった。絶対にいやだった。九那登なんて絶対にしたくなかった。

もう良いから千華音ちゃんにこのまま斬られちゃいたいって何度も考えたんだよ。

でも、それしかなかったから。私にしか出来なかったから。だからそうしたんだよ。

死んで欲しくなかったの!

だって、それしかないよ。

嫌われたままお別れしたって、もう二度と会えなくたって……それでも……そうするしか……なかったから……。」

媛子の目から涙が溢れ出す。

それは無理矢理に、理性と理屈と想いで、ねじ伏せ、抑え込んで来たものの爆発だった。

煮えたぎったマグマのように、溢れ出し、媛子自身を灼いていた。

「だから……だから……私……だから……がんばって……そうしたんだよ……なのに……なんで?」

溢れる涙で頬が斑模様に汚れていく。

「なんで? なんで? なんで?」

「……。」

「ばか……千華音……ちゃん……のばか。」

莫迦。

千華音の前では決して口にしなかった言葉。

「ばか! ばか! ばか!」

そこには『日之宮の御神娘』らしい思考も計算も演技もなかった。

ただ癇癪を起こした幼児が玩具を投げ散らかしているかのような、小さな拳をただ振り回しているかのような。

ひどく滑稽で、情けなくて、哀しくて……そして……愛らしい。

千華音に言葉はなかった。

その碧空色の瞳には初めてのものを目にした赤子のような無垢な驚きだけがあった。

「……ばか……。」

千華音はそっと媛子を抱き寄せる。

幾千の謝罪、幾万の慰めにも勝る温もり……そして、世界でただ一つしかない芳香が媛子の身体を優しく包む。

媛子の指が、千華音の巫女服を強く、強く掴む。

激しく抗うように、強く求めるように。

原初の森の夜がただ音もなく過ぎる中、千華音がゆっくりと唇を開く。

「私ね……あなたの、日記を読んだの。」 

「!?」

媛子の身体がびくんと動く。

「……?」

「私が焼いたクッキーの瓶……媛子が宝箱って言ってくれた瓶にあった日記。」

媛子が懸命に頭を振る。

「……あれは……あの……。」

「私には、媛子を殺さないことしか出来なかった。私の中に巣くう黒い棘の囁きに抗うだけで精一杯だった。」

「……。」  

「なのに媛子はその先まで考えてくれた。二人の殺し合いを避けるやり方を…私たち二人が助かる道を…たった一人で考えてくれた…この私の分まで。」

「ちがう……そんなの……。」

媛子が消え入りそうな声で応える。

千華音が媛子を抱く腕に力を込める 

「だから媛子に会いたくなったの。あなたと話をしたくなったの。どうしても。」

「……話……?」

「もう少しだけ、媛子に私の話を聞いて欲しいの……。」

「……。」

「聞いてくれる?」

柔らかな、それでいてしっかりとした物言いに応えるように、媛子は小さく頷いた。

「ありがとう媛子。」

「……?」

「私に沢山思い出をくれて。」

「何……それ? そんなこと、言わないで……。」

媛子は隠れるように、千華音の胸に顔を埋める。

「私、全然何もしてないよ。」

「お弁当を、私のために作ってくれたわ。指を傷だらけにしてまで、一生懸命に。」

「わざとだよ。そんなの、『皇月の御神娘』に油断して欲しかったの。」

「私のために水着を選んでくれたわ。」

「心の中で嗤ってたんだよ。こんな程度で引っかかって……簡単だなあって……。」

「でも……。」

「お願い……もうやめて。」

媛子が引きちぎるように言葉を紡ぎ出す。

「……千華音ちゃんのためになんかじゃないよ。全然無い。ただ勝つためにやったんだよ。殺されるのが恐かったから笑ったんだよ。」

「でも、空っぽの私を一杯にしてくれた。」

「良くないよ。全然良くない!」

媛子は強く頭を振る。

「全然、綺麗じゃない。千華音ちゃんとは違う。汚いウソばっかりついて。誤魔化して。……私は他に何にもないの……。」

切り刻むように。

「私……違うよ……私……。」

優しくされる資格なんか無い。

千華音は静かに応える。

「小さい頃ね、万華鏡で遊ぶのが好きだった。」

「え?」

「覗くたびに、回すたびに、くるくると色と形が変わっていのくに夢中になったわ。」

「……。」

「何百回、何千回変わっても。それはやっぱり同じ一つの万華鏡なのがとても不思議に思えた。いくら形を変えても……。」

媛子が顔をあげ、まじまじと千華音の顔を覗き込む。

「あなたもそう。」

「……。」

「笑って、怒って、泣いて、苦しんで……でも……どれも全部あなた……そうでしょう?」

「千華音……ちゃん。」

「そんなあなたが隣にいてくれることが、好きなの……ありとあらゆるあなたがどうしようもなく好きになってしまったの……とても……。」

千華音の頬が上気したように赤く染まっている。

「だから、今度は私からきちんと言わせて。」

千華音の言葉が止まる。

「媛子。」

鼓動が高鳴る。

巫女服の生地も、互いの肌も、御神娘のさだめも超えて。

千華音の鼓動が高鳴る。

それは力と熱の印。

躊躇いと、畏れと、恥じらいと……そして強い強い想い。

こんなにも凛々しくて強い人が、告白に揺れている。

そんな女の子の顔を見せる。

そして、媛子は知っている。

それは、己の胸の高鳴りと重なり合うものなのだと言うことを。

「私の……一番大切な人になって。」

幾万の美辞麗句にも勝る、宣誓の言葉。

千華音はただそれだけを伝えるために来たのだ。

たとえこの場で媛子に『否』を突き付けられても、何の悔いもなく終われる。

どんな月よりも眩しく微笑んだ。

「……。」

媛子はただ黙っている。

まるで彫像と化したかのように。

ただ、その頬を一筋の涙が伝い墜ちた。

「でも……。」

千華音はただ静かに待っている。

追われている状況の中で。

一分一秒が黄金よりも貴重なこの時に。

ただ静かに待っている。

媛子は頭を振る。

そうじゃない。嫌いなわけ無い。ち

全身でそう訴えている。

それでも―――。

媛子の唇が更なる言葉を紡ぎ出そうと動く。

そして―――。

「はい。そこまでですよ。」

「!?」

弾かれたように二人が振り返った先には、『御観留め役』が。

近江和双磨が立っていた。

(三)

夜の舞台に三人が集っていた。

睨み据える皇月千華音。

動けない日之宮媛子。

そして、穏やかな眼差しで見つめる近江和双磨だ。 

「盛り上がってるところ申し訳ない。でも、このまま黙って見ていてあげる訳にもいかないんだよ。」

そんな軽口を叩きながら、双磨が無造作に歩を進めて来る。

千華音の間合いなど気にしないかのように。

しかし千華音は知っている。

その無造作さの裏には、万の罠を潜ませていることを。

ほんの僅かでも気を緩ませてはならないことを。

双磨は委細かまわず話し続ける。

「しかし、流石に面食らってしまったよ。海の向こうに流した御神娘が『九納斗』の場に現れるとはね。しかも聖なる御社に火まで放つなんて。」

指先をくるくると動かす子供じみた仕草。

しかし、そんな無防備な動きにさえ、夜の生を呑み込む死の匂いがある。

「そう言えば、聞いたことがあるよ。人体のツボの中には相手を仮死状態にするものがあると。」

「君の仕業だろう? 『日之宮の御神娘』。」

その言葉に媛子が身を固くする。

「その死を看取った『九頭蛇』など今頃半狂乱になっていることだろうな。」

そして、ゆっくりと辺りを見回し、

「こんな潜伏場所まで用意しているなんて、本当に大したものだ。恐れ入ったよ。」

無造作に手近の藪に手を突っ込む。

そこから引き出したのは、一把のピアノ線と麻布の小袋だ。

双磨が小袋を無造作に投げ捨てる。

地面に響くのは重々しい響き。中は尖らせた鉄片や火薬などが詰まっているのだろう。

千華音が攪乱のために仕掛けたトラップの数々だ。

千華音が微かに眉を潜める。

こんなものが通じる相手と思っていたわけではない。

でも、こんなにも速く追いつめられてしまうとは。

「しかし、惜しいね。君たちは お互いに意識を向けすぎている。油断とまでは言わないけど、画竜点睛を欠くとはこのことだ。」

双磨の世間話にも似た長広舌が続く。

緊張感の欠片もないその姿を前に、千華音はただ立ち尽くすしかない。

探っても、探っても、薄紙一枚ほどの隙も見あたらない。

あるのは見渡す限りの黒。

その濃度すら測れない広大無辺の闇。

たった一人である筈のこの男が、二人を取り巻いているかのように。

まさに夜、そのものだ

なんて得体の知れない男だろう。

そんな千華音の尻目に、 双磨は話を続ける。

「確かに気持ちは判らなく無いけど、無理強いは良くない。

あれだろう、君は『お姉様』なんだから、『可愛い妹』が返事の出来ない質問なんてするもんじゃあない。その娘は見た目よりもリアリストなんだからね。」

―――君よりもずっと―――という揶揄を言外に込めて。

「心の何処かで気付いているんだ。このまま逃げたって、何にもならない。

愛があれば大丈夫とか、今は、そう思えるだろう……けど、そんなわけ無いじゃあないか。……ってね。」

媛子が衝撃に大きく目を見開く。

双磨の言葉が、見えない弾丸のように心に突き刺さる。

「いいかい。

君たち二人はね、大蛇神様の掌の上でこそ特別な『御神娘』なんだ。

例えばここから上手いことやって島から出たとして。

それで、どうするの?」

「味方はいないよ? どこにも。

『家』も『九蛇卵』たちも、『御神娘の掟』も君たちを助けない。

君らはまともに学校すら行ってない。

社会的な経験値だってたいして積んじゃあいない。

構築した有益な人間関係が一つでもあるかい?

要するにだ、そこら辺ではしゃいでいる女子高生以下なんだ。」

双磨の言葉はもはや弾雨の如く媛子に降り注ぐ。

「心の繋がりとかで、腹がふくれてくれっこない。涙たっぷりに慰め合うのが関の山だ。」

「違う。そんなの……。」

媛子のか細い声が響く。

例えるなら、戦場の恐怖にこらえ切れなくなった新兵ががむしゃらに砲火の中に飛び出していくように。  

「へえ? じゃあ何なんだい?」

「……。」

媛子は応えない。応えられない。

「教えてくれないかい?」

媛子は俯き唇を噛むしかない。

「ねえ。」

双磨は無造作に歩を進めていく。

千華音の攻撃の間合いに入ることをまるで躊躇していないかのように。

「君のリアルはなんて言ってる? 最後くらい本当のことを言った方が、気が楽になるんじゃあないかな?」

そう言って微笑む双磨。

その瞬間―――。

当然、周囲の空気が大きく音もなく弾けた。

夜闇を裂いて、一条の銀の閃光が疾る。

千華音の一の太刀が双磨を襲ったのだ。

「!?」

流石に双磨が大きく飛び下がる。

千華音も大きく後方に飛び跳ね、間合いをとる。

双磨の攻撃圏内から待避したのだ。

双磨の装束の胸元が切り裂かれている。

双磨の白い指先がその奥に伸びていく。

「……。」

引き抜いた指先は赤く濡れ光っている。

「いつ以来かな……傷付けられたのは。」 

双磨の瞳に浮かんだ光は、愉悦めいた喜びの輝きだ。

挑発するかの如く、指先の血を舐めとってみせる。

その時―――。

流れる雲が―――。

月光が微かに陰らせる。

その瞬間。

千華音が疾風の如く跳ぶ。

猛禽のように。

獣のように。

速く。

鋭く。

双磨の太刀が唸り、銀光を止める。

闇を劈く鋭い金属音。

と共に、再び千華音は間合いの外へと引いている。

「へえ……。」

闘志と決意を込めた銀光が、角度と速さを変えて次々と双磨に襲いかかる。

目まぐるしく立ち位置を変え、相手の狙いと間合いを狂わせる足捌きだ。

決してつけいる隙を造らず、双磨を激しく責め立てていく。

双磨は避け、止め、捌き続ける。

「流石は……『御神娘』だね。」

その吐く息は流石に熱いものがある。

「『御霊鎮めの儀』で君の太刀筋は見切っていたつもりだったんだけどな。」

咬み合う刃と刃が火花を散らす。

「さしずめ怒りと決意を込めた、護るための刃。」

美しき肢体が宙を舞う。

「姫君と女騎士、命を賭しても護るべき対象が、君の刀を何倍にも高めている……訳か。」

銀光が夜を裂き、指先ほどの間合いで双磨ののど元のあったところを疾り抜けていく。

月下の死闘はなお、終わる気配を見せない……。

責め立てる千華音と受け続ける双磨。

これだけ取ってみれば、一方的な展開だ。

しかし―――。

闘いを見守る媛子の瞳には、不安の影が揺れている。

なぜなら、あらん限りの力をふるう千華音に向かって、双磨は善戦をたたえる余裕さえ見せている。

例えるなら―――。

情熱の炎でも決してさえ照らし尽くせない。

とてつもなく深い原始の夜闇。

このまま二人とも呑まれるしかないのか…と。

「オレも男として、女の子に手を出すのは不本意なんだが。やるしかないみたいだなぁ。」

口元に嘲笑の笑みを貼り付かせながら、双磨は動く。

その責めは―――。

刃でも、蹴りでも、飛び道具でもなく。

おぞましくも黒い殺気。

それは為す術も無く立ち尽くす媛子に向かって放たれたのだ。

「!!」

「っ!?」

千華音の身体と意識が反射的に媛子にのみ向かう。

それは半瞬にも満たない微かな乱れに過ぎない。

しかし、『御観留め役』には充分すぎるほどの時間だった。

双磨の腕が奔り、漆黒の閃光が迸る。

闇を跳ぶ高速の蛇のように。

次の瞬間、千華音の左腕は古木の幹に貼り付けにされる。

「邪魔はよしてくれないか。今いい所なんだから。」

逃れようと激しく身をよじる千華音だが、戒めは緩むどころか更に深く強く千華音の肌に食い込んでくる。

「ッ!?」

忍耐強いはずの千華音の顔が苦痛に歪む。

「九頭蛇黒縄術の一つ、飛竜縛。

それは、油を丹念に塗り込んだ女の髪と琴糸よりも細い鋼線を秘伝の技で丹念に綯ったものだ。あがけばあがくだけ肌を締め付け、肉を裂く。馬だろうが熊だろうが逃しはしない。」

当の千華音ではなく媛子の顔が青ざめる。

「まして、女の子の細腕じゃあ。」

双磨が嘲弄の微笑みを浮かべる。

「君はあとで、相手してあげるからさ。」

双磨は笑う。

媛子への質問攻めを再開する。

「判ってるくせに、どうして教えてくれないんだい。

君は判ってる。

ただそれを認められない。

言い出せないだけでね。」

「……。」

「君の口からはっきり聞かせてよ。」

媛子は子供がイヤイヤをするかのように、首を振る。

「しょうがないな。こうしよう―――。

教えてくれたら、この場は目をつぶってあげてもいい。

どっちか一人、好きな方を助けてあげる。」

「!?」

「繰り返すけれど、このままじゃあ、どう転んでも君たちは助かりっこ無い。大サービスだ。」

「……。」

媛子はそれでも押し黙っている。

「やれやれ。」

詮のない事だと頭を振る双磨。

「じゃあオレが代わりに言ってあげよう。」

媛子の返事など待たず、双磨は蕩々と語り出す。

「相手を殺したくなかった?

助けたかった?

なんて麗しい友情だ。

いや、愛か?

どっちでも大差ないけどね……リアルの前では、綿埃も同然だ。

じゃあ聞くけど、何で君が死んでやらない?

それが一番丸く治まるやり方じゃあないか?」

言葉が鞭となって媛子の魂を叩く。

「相手に手を汚させたくなかった?

なるほど、やっぱり君は賢いね。

実にお綺麗な言い訳だ。

でも、ウソだろ?そんなの。

要するにさ。

君だってリアルを選んだんだ。心の底では。」

「!」

「甘酸っぱい青春と香気と。

濃密な心の交わり。

楽しむだけ楽しんだあと、誰にも渡さないように片付けて、自分だけのステキな思い出としてきっちりしまっておく。

そうだろ?子供が飴をしまっとくみたいに。

さっさと終わりにしようとしたんだ。

そして、静かで、安楽な、島の女王としての生き方を選んだんだよ。

時折、思い出したように追憶という飴をねぶりながら、新しい日々を満喫する。

そうだよね?」

媛子が怒気と恥辱感にカッと頬を赤らめる。

「違う!」

千華音に叫んだ声とは全く質の違う荒々しい声。

「違わないね。確かに君は賢い。

自分を良く判っている。

君は何もかも騙して回る。

『皇月の御神娘』も、島のみんなも、自分自身さえも。

綺麗に飾り立てて、香水を振りまいて。

拍手の中でお終いにしようとする。

本当に君は賢くて。

卑怯な嘘つきだ。」

悔しいやら哀しいやら情けないやら申し訳ないやらで。

媛子の目から再び涙が溢れ出す。

傷口から流れ出す血のような、痛々しい涙。

その姿に、双磨は柔和な笑みを浮かべる。菩薩のように華やかな、それでいて何処か冷え冷えとした笑み。

「まさか君だって泣いたくらいで、許されると思ってないだろ?」 

認めな。

更に言葉責めをしようとしたとき……。

裂帛の気合いと共に、嵐のような塊が飛び込んできた。

銀光が閃く。

「!?」

流石に不意打ちに双磨の身体がよろめく、

千華音が身構える。

その左手には、ちぎり取られた黒縄と溢れ出す血に染まっていた。

千華音が媛子の抱き寄せると脱兎の如く走りだす。

その姿は瞬く間に夜の闇の中へと消えていく。

「……。」

双磨が掌を見つめる。

一筋の疵痕からどくどくと血が溢れ出す。

しかし、顔色一つ変えはしない。

黒縄が蛇のようにうごめき双磨の腕に絡み付き縛り上げる。

血止めの代わりなのだ。

そして―――。

大烏の如く、闇へと飛び込んでいく。

(四)

吹き付けてくる風の響きと、崖下から響いてくる潮騒の轟き。

断崖絶壁の舞台で重なり合う千華音と媛子の影があった。

支え合うように。

慰め合うように。

そこへ。

死を告げる夜、双磨が姿を現す。

すっと身を引く二人と双磨が対峙する。

背後は断崖絶壁。

その下は死の大渦が唸りを上げている。

ついに逃げ場はなくなった。

双磨の口元に薄笑いが浮かぶ。

そして、完璧に獲物を追いつめた喜びを込め、言い放つ。

「言ったろう? 君たちはどこにも行けない。走っても走っても走っても、どこにもたどり着きやしないんだ。絶対に。」

二人の御神娘は彫像のように動かない。

ただ、千華音の太刀の切っ先だけが双磨の急所へと伸びている。

「今、この状況こそが君たちのリアル。

どうしようもないリアルだ。

二人きりの逃亡者。

まして女の子同士の恋愛と来てはね。

セレブの道楽でもあるまいに。

まともな終わりがあるわけがない。」

その瞳に浮かぶのは嘲りの光。

一体、何重苦なら気が済むのかと。

千華音の太刀は、震えもない。戸惑いもない。その切っ先は正確に双磨の急所へと伸びていくだろう。左腕にこれだけの傷を負っているというのに。

だが、双磨にとっては、それだけの事でしかない。

万全の状態ならいざ知らず、今の傷付いた千華音状況を跳ね返せる力など無い。

双磨にしてみれば、当然の結果だ。

「この期に及んで負け惜しみを続けるのかい?

意地っ張りもここまで来ると滑稽だ。」

「……。」

千華音の唇が小さく動く。

「はっきり判るように言ってくれ無いかな。」

双磨は悠然と千華音の唇が動くのを待っている。

理で覆そうとするのか?

情熱の炎で焼こうとするのか?

何を言おうが所詮は折れた剣を振るうようなものだ。

そよ風に吹かれたようなものなのだから。

しかし―――。

「……。」

千華音の唇はいかなる言葉も紡ごうとはしない。

当然だ。千華音にはまともな反論など一つも無い。

「……黙りかい?

まあそうだろうね。

何も言えやしないことくらいは君だって理解しているだろ……。」

しかし、千華音は応えない。

「……日之宮の御神娘……君はどうだい?

大切な人とやらのために一席ぶって見る気はないかい?」

「……。」

媛子も口は開かない。

千華音に縋り付く手にますます力を込めていく。

双磨の心に不可思議なさざ波が立つ。

何だこの違和感は。

ついさっきまで泣きじゃくっていた女が。

ついさっきまで貼り付けにされていた女が。

強く、硬く、結びついている。

何故、そう見える?

無力な小娘二人が堅牢な砦のように、

そびえ立つ大障壁のように見えてしまったのは何故なんだ!?

何があった?

双磨から二人が逃れ去った時―――。

砂時計が墜ちきるまでもない、ほんの僅かの間に。

この一体に何があった?

二人が押し黙っているのは―――。

言い返せないからなのか?

本当にそうか?

その必要がないからではないのか?

まさか?

双磨は、微かに眉を潜める。

痺れるような、疼くような、もどかしい何か。

そこには微妙な翳りがある。

苛立ち!? 

焦り!?

怒り!?

いや、そんな大きな揺らぎではない。

だが、確かに揺れているのが判る。

そして、それにもっとも驚いているのが他ならぬ双磨自身だった。

何なのだ? この不可解な感じは。

何故こうなる?

言葉が―――。

二人に、届いていないからか?

ほんの一月前には、手に取るように玩べた小娘どもが。

一言一言に、心に針を突き立てられ、見えない血をどくどく流していた少女たちが。

そんな馬鹿な。

嘲弄の言葉も、圧倒的な技量の差も、目の前に突き付けた死と言う名の現実さえも。

何一つ届いてはいないというのか。

例えば―――。

まるで分厚い岩を素手で叩いているような。

水面に斬りつけようとしているかのような。 

いや違う、もっと虚しく滑稽なものだ。

煌々と輝く月に向かって、吼えているような―――。

ありえない。

そんなことは。

杜束島の未来を担う『御観留め役』が。

近江和双磨が。

あってはならない。 

千華音の口元が綻ぶ。

笑っている。

死と闇を笑いながら支配する夜のような男、近江和双磨を。

癇癪を起こした子供の駄々を見るように。

天に月に向かって吠える犬を笑うように。

双磨は正しい。勝ち残るのは双磨。

だから何?

報われない終わりが。

そんなに恐いの?

千華音にそう突き付けられているような錯覚に陥る。

巌よりも、鋼の山よりも重々しい何かが、双磨の胸にのしかかってくる。

この忌々しい重圧はなんなのだ?

これが敗北感というものなのか?

思索の糸車を虚しく巡らせる双磨に、千華音がやっと口を開く。

「可哀相な人ね。」

「!?」

「あなたはそうやって好きなだけ、この島の小さな『リアル』とやらに酔っていればいい。

たった一人で。ずっと。」

「何!?」

双磨の目がギラリと輝く。

「私たちは、行くわ。」

千華音は悠然と髪をかき上げ、言い放つ。

その背に爛々と輝く月を従えて。

その声に応えるように媛子が全身で千華音に縋り付く。

次の瞬間―――。

双磨の太刀が鞘走る。

手練れの戦士すら気死させる裂帛の気合いを込めて。

その必殺の切っ先が電光石火の如く唸り、二人の『御神娘』を情け容赦なく刺し貫く。

そのはずだった。

髪一重にも満たない差で、

二人は空中に大きく飛び出す。

支えるもののない虚空へ。

見えない道がそこにあるかのように。

月へと還る一対の天女のように。

もし、その光景を見る誰かがいたら、そのまま遙か彼方へと跳び去っていく姿を幻視していたかも知れない。

しかし―――。

天に道などあるはずもなかった。

二人はそのまま墜ちていく。

しっかりと身体を重ねたまま、荒れ狂う夜の海へと、真っ直ぐに。

幾呼吸の刻が静かに流れ。

大きな水柱が上がった。

こうして、乙女と乙女の舞台は跡形もなく消え去った。

双磨は一人立ち尽くす。

怒気も気迫も跡形もなく消え失せ、岩や古木のような一個の自然物と化したように―――傷口から滴る血を拭おうともせず。

ただ、静かに。

そして―――

しばしの刻が流れ。

その場にようやく『動くもの』たちが姿を現す。

組頭が率いる十名前後の『九蛇卵』たちだ。

駆けつけた九蛇卵たちが、双磨の足下の血だまりに気付く。

「『御観留め役』様……。」

「何、どうという事もない。」

振り返りもせず双磨は言い放つ。

何の感情もない無機質な声だ。

「『御神娘』は何処に?」

双磨は物憂げな仕草で崖下を指し示す

「手応えはあった。」

おお、『九蛇卵』たちがどよめく。

その声には賞賛と感嘆以外の何かが含まれていた。

「ましてこの高さから墜ちて助かりはしまい。」

太刀に付いた血を袖口で拭い、鞘に収める。

踵を返し、歩き出す。

『九蛇卵』組頭らしき男が双磨を呼び止める。

「お、お待ち下さい。」

双磨の足が止まる。

「しかし……その……良いのですか……?」

『九蛇卵』組頭がおずおずと問いかける。

報告のために、『御神娘』の屍体を確認せねばならない。

そう訴えたいのだ。

「オレを疑うのか?

双磨の言葉には棘も毒もなかった。

込めたのは『御神娘』に叩き付けた気合いの残滓のような物ではあったが、『九蛇卵』たちを怖じけさせるには十分すぎるものであった。

「……いえ!? めっそうも!!」

「そんなに気になるか。」

双磨が太刀を動かし、

「この風と潮の流れからいって、屍体はこっちに流れつくだろうな……。」

九蛇卵たちに行くべき方角を指し示す。

あわただしく動き出す九蛇卵らを残し、

双磨は再び歩き出す。

(五)

杜束島。

古の黒い情念が凝ったような、闇の底の底で。

「たわけが。大たわけ共がぁ!」

女神祇官のヒステリックな怒声が響き渡る。

声もなく地にひれ伏した『九頭蛇』たちに尚も容赦なく言葉の鞭が降り注ぐ。

「それでも大蛇神様に選ばれし『九頭蛇』か!? 杜束島の滅びを何と心得る!? 尊き誓約を何と心得る!?大蛇神様のお怒りを何と心得るか!?あきれ果てたる能なしどもが!」

月も日も人工の炎も。

あらゆる光が届かないこの聖域に。

たったひとつ、見える光がある。

見開かれた日本髪の童女、霊句子の目だ。

爛々と輝くそれは、彼女の主たる大蛇神様を想わせる。

「追え。櫓櫂の及ぶ限りどこまでも追え。せめてあの二人を贄に捧げお許しを請わねば、『大蛇神様』に申し訳が立たぬわ!!」

治まる気配もない激しい怒気に撃たれ、『九頭蛇』たちは為す術もなく身を小さくしているだけだ。

その中には『御観留め役』、近江和双磨の姿があった。

闇よりなお暗い心の奥底で、双磨は静かに考える。

まぁ、そうなるだろうな。

神代の昔から受け継がれてきた『杜束島』のリアルが今まさに崩れ落ちようとしているのだ。

それなのに―――。

オレは百も承知で『九蛇卵』たちを散らせた。

海に落ちた『御神娘』を絶対に探し出せやしない明後日の方向ヘと導いたのだ。

それにしても―――。

何なのだろうかあの二人は。

そうとも―――。

俺は間違ってなんかいない。

杜束島こそが我が家であり、我が全て。

砂糖細工の夢なんかを、いつまでもしゃぶってられるものじゃあない。

いつか必ず崩れ去るんだ。

子供が家路に付くように。

閉園の時間が来るように。

死がいつか必ず訪れるように。

いつかはリアルの前に屈する。

あの二人はそれから目を背けただけだ。

いつまでも蜜にまみれた夢の続きを見ていたくて、ベッドにしがみついていただけだ。

浅はかで、欲深な娘たちだ。

そう―――。

オレは何一つ間違ってない。

でも、あの時。

あの瞬間に―――。

必殺の太刀を奔らせるその時。

オレはふと思ってしまった。

あの二人が、羨ましいと。

さあ、行くがいい御神娘たちよ。

そして、オレに教えてくれ。

お前たちがまだまだ舞台の上に立っていられるのかどうかを―――。

もしも―――。

もしも、その先があるというのなら。

このオレに見せつけて見ろ。

(六)

いつか何処かのこの世界の片隅―――。

色あせた夜の店の看板。

ディスプレイの一部が崩れた自販機。

かっては人ごみで賑わったであろう商店街には、まばらな人影と時折通り過ぎていくトラックぐらいしか見えない。

そんな寂しい地方都市の駅。

改札口を入ってすぐのホーム。

三番目の柱に背をあずけて。

紅茶色の髪の少女が立っている。

踵で無音のリズムをとっている。

まるでこれからを待ちきれないかのように。

もうすぐ約束の時間なのだ。

「媛子。」

媛子が振り返った先には、濡れ羽色の黒髪を翻らせた美少女が立っていた。

その左手には―――その美しき姿には不似合いな―――白い包帯が巻かれている。

媛子は弾けるように走り出し、千華音の下へと走り出す。

そして、二人は歩を進めていく。

塗装が墜ち赤くさびの浮いたフェンス。

パチンコ屋だったであろう廃墟。

寂しく揺れる枯れススキの野原。

そんな寂れたもの悲しい道を。

互いの影だけをお供に。

媛子が千華音に話しかける。

「お医者さん、なんて?」

「来週には包帯は取れそうだって……もう痛みはほとんどないわ。これで私も媛子の役に立てそうね。」

大丈夫な所を見せるように左腕をかかげて見せる。

「ここしばらく媛子に助けてもらってばかりいたもの。」

そう言って千華音は微笑む。

「そ……そんなこと無いよ……私……ぜんぜん、たいしたことなんか……。」

媛子は恥ずかしそうにもごもごと口ごもる。

「でも、楽しかったわ。誰かに髪を洗ってもらうなんて初めてだったもの……。」

媛子の顔がますます赤くなる。

二人一緒のお風呂は嬉しいけど、恥ずかしい。

身体を押し込むようにして浸かるきゅうきゅうにきつい浴槽。

間近で見せつけられる二人のプロポーションの違い。

いつも思っている。

銭湯みたいな広い浴槽だったらどんなにいいかと。

でも、いつぞや銭湯に行ったときは、もっととんでもない事になった。

千華音の純白色の肌に見入っているうちに、何故か媛子のお腹が鳴ってしまったこと。

千華音が笑いながら、「他の誰かのせい」にしてくれたけれど。

媛子は顔から火が出るかと思ったほどだ。

お風呂は毎回が赤裸々で。

何だかくすぐったい喜びに満ちている。

そんな媛子の反応を千華音は楽しそうに見つめる。

大好きな万華鏡を覗くように。

木枯らしが吹く中、長い影を引いて二人は歩き続ける。

そして、ポツポツと言葉を紡いでいく。

中身など無い、他愛ない話だ。

昨夜の夕食の味付けが少し甘すぎたこと。

おかずが三品あるとそれだけで楽しいとか。

椿の葉もお茶代わりになるなんて知らなかった。

朝晩が随分冷え込んで来たこと。

愛より夢よりこたつが欲しいこと。

草むらにテレビとかと一緒に放置された自転車、あれ乗って行ってもいいのかな?

田舎には思ってたより野良犬が多い。

ふと目にしたのは閉店になったレンタルビデオ屋。

その光景が媛子の中の懐かしい記憶を擽ったのか、つるりと言葉が口を付いて飛び出す。

「あのね、聞いたんだけど、あれ続編出来るんだって。」

「そう?」

あれとは、媛子の部屋で見たアイドル映画の続編である。

配役は随分変わってしまった。

ネットでは、契約のゴタゴタで揉めたとか下世話な噂されてもいるのだが。

もちろん、息抜きをしている余裕があるわけではない。それに、一つの街に長い間とどまっていられるような状況でもない。

それでも―――。

「見たい?」

「……うん。」

千華音の問いかけに、媛子が頷く。

「なら、そうしましょう。」

千華音の意外な言葉。

「例えば……そうね、三日くらい、晩ご飯を抜いてみるとか。」

「……え……?……ええと……。」

「バイトを増やしてみるとかどう?」

「……ううん。」

媛子の気持ちは大きく揺らぐ。

二人は物日遊山の旅を続けている訳ではない。体力はいつだって温存しておくものなのだ。

いつか必ず迫って来るに違いない『九頭蛇』の監視と追跡の目を意識しての毎日、自由に使える時間だってそうある訳じゃない。

まして傷が癒えたばかりの千華音にそんな無理をさせていいはずもない。

千華音なら喜んでそうしてくれるのは判っている。

媛子の気持ちを軽くするために、ダイエットにかこつけてそうしてくれるだろう。

その優しい気持ちは嬉しい。とっても嬉しい。

でも、だからって……。

そうだよ。

もうこれは『お付き合い』じゃあないから。

ちゃんとやらないといけないんだ。

媛子は口を開く。

「…やっぱり…そ、そんなでもないかなぁ……。」

「本当に?」 

「うん。」

「そう。」

千華音の態度は変わらない。

木枯らしのような風が吹く。

「ねえ、媛子。」

「?」

「ちょっと目をつぶってくれない?」

「え? どうして?」

「どうしても。」

千華音はそう言って柔らかく優しくほほえみかける。

厳しさや鋭さとは無縁の願いだ。

「う……うん。」

わけが分からぬまま、媛子は幼子のように素直に目を閉じる。

次の瞬間。

媛子は身体がふわりと宙に浮くのを感じる。

抱き上げられた。

驚く暇もなく、耳元を風の唸りが通り過ぎていく。

いつか二人で乗ったジェットコースターを思わせる疾走感と浮遊感。

思わず媛子は千華音の首に縋り付く。

「もういいわ。」

媛子が目を開けば。

そこは―――。

下界を見下ろす遙かな高み。

廃墟の上? 鉄塔の上?

「千華音ちゃん……これ。」

「ね、大丈夫って言ったでしょう?」

千華音は傷付いた掌を翻らせながら、誇らしげに笑う。

聖なる騎士のように。

天の女神のように。

お姫様のように

空には満天の星が輝き。

つまらない灰色の街の向こうには、月に照らされた美しい夜景が広がっているのが見える。

媛子は嬉しそうに、千華音の首根っこに縋り付く。

墜ちたらただじゃ済まない。

あの時もそうだった。

そうだ。あの時と。

恐ろしくも美しい忘れられないあの夜に。

(七)

二人はこの世の果てで立ち尽くしていた。

千華音の左腕から溢れ出す血に、媛子は声も無い。

その息は荒く、顔色も悪い。

あれだけ漲っていた千華音の中の『力』がみるみるうちに何処かに流れ出していくのが媛子にも判る。

このままじゃ―――。

そう思った瞬間―――。

尚も走り出そうとする千華音の袖に媛子は力一杯しがみついた。

「もう……いい。

もう無理だよ。」

口を開こうとする千華音を、振り切るように媛子は話し続ける。

「『御観留め役』の言うとおりだよ。きっとこの先なんか無い。

このままじゃ……もう……駄目だよ。」

苦悩し、絶望し、カラカラに乾ききった魂を絞り上げるような―――。

力のない震える声。

それでも、それは媛子の心からの叫びだった。

「私がここで死んでもいい。島に残ってもいい。

だから……千華音ちゃんは―――。」

自ら放つ言葉の一つ一つが、刃となってその心に無数の切り傷を刻んでいく。

こんなこと言いたくない。

『御観留め役』の言うとおり、私はリアリストなんだ。

弱虫という名の、リアリストだ。

哀しくて。辛くて。苦しくて。恐い。

リアルに、抗えない。

こんな終わり。

絶対にイヤなのに。

でも―――。

どれだけ間違ってても、

千華音ちゃんは許してもらえなくても。

生きていて欲しい。

お願いだから。

「死なないで。」

媛子はこう言うしかない。

何度も何度も自分に言い聞かせながら、媛子は想いを絞り出していく

もう一度―――。

何度でも言おう。

一番、大切な人に届くまで。

私は一回死んだんだ。

だから今度も、きっと出来る。

最後の最後で、こうして千華音の本当の想いを聞けたんだから。

それだけ持ってれば、私はきっとどこにだって行ける。

だから―――。

その時―――。

千華音の血に染まった指先が、媛子の唇に触れる。

もう、言わなくていいよと。

媛子の唇が止まる。

そっと媛子を抱き寄せる。

衣擦れの音。

重なり合う肌の熱さ。

抱き締める腕の力強さ。

巫女服の布地にしみ込んでいく生々しい血のニオイ。

世界にひとつしかない千華音の芳香が媛子を包む。

響いてくる鼓動の高鳴り。

そして芳しい唇。

千華音からの媛子へのくちづけ。

千の言葉。万の宣誓にも勝る。

『一番大切な人』からの贈り物。

離れない。離さない。

ただそれだけを誓う。

そして、唇と唇が静かに重なる。

それは血の味のするキス。

惜しみなく注ぎ込まれる愛。

それは幾重にも鎧われた媛子の鎧を砕いていく。

『一番大切な人』の全てが、今媛子に向かって注ぎ込まれている。

媛子が千華音の胸に全身をあずける。

その腕で、その指先で、その肌で、その聴覚で。その鼻孔で―――。

そして、その心で―――。

『触診』などという小手先の術ではなく、全身全霊を懸けて、皇月千華音を受け止め味わう。

そして媛子は知る。

左手に刻まれた傷の深さ。

ソレは己が身を顧みることなく媛子を護った証。

抱き締めた身体が思ったよりもずっとずっと柔らかくて、華奢であること。

ほんのりと染まった頬の赤さ。

揺れている長い睫毛が濡れていたこと。

尚も媛子は求めていく。

そして―――ついに気付く。

千華音の身体が、微かに、ほんの微かに震えていること。

それは媛子が夢にも思っていなかった事。

あの気高くて、勇敢な千華音が―――。

こんなにも―――。

激しい驚きと痺れるような感動が媛子の胸を貫く。

ああ……。

そうか。

そうなんだ―――。

千華音ちゃんだって恐かったんだ。

なのに、私のために立ち上がってくれた。

力一杯、受け止めてくれたんだね。

その頬を幾たび目かの涙が流れていく。

それは嘆きでも、怖れでも無かった

感激と決意の涙。

どんな慰めより、どんな励ましよりも。

媛子の背を力強く押してくれたのだ。

リアルに怯える前に。

終わりから目を背ける前に。

やることがあるんだ。

しっかりしなきゃダメなんだ。

私が―――。

あらん限りの力と誓いを込めて、媛子が千華音を抱き締める。

大丈夫だよ。

私、全然強くなんかないけど。

平気なふりなんて出来ないけど。

それでも。いま、ここにいる。これからもずっと。

私―――。

約束するからね。

千華音の震えが治まっていくのが判る。

たとえ、死が二人を分かつとも。

互いの唇を通して、そんな想いが伝わっていく。

二人の熱く静かな口づけは続いた。

人の形をした夜が、二人の前に現れるその時まで。

(八)

そう―――。

私たちはいつだってそうだ。

研ぎ澄まされた白刃の上が、私たちの舞台。

足下には死と別れの待つ根の国が広がっている。

でも、だからこんなにドキドキ出来る。

だから、こんなに嬉しい。

安全や無難には無い。

他の何者にも代え難い大きな喜び。

例えるならば―――。

楽に進める道もないだろう。吹雪く時もあるだろう。

それでも苦難を乗り越え、障害を切り開いて、ついに未踏峰を登り切った時にも似た感覚。 

媛子は千華音にぎゅっと縋り付く。

一万人の騎士より頼もしい、媛子のためだけの腕。

やっぱり凄く気持ちがいい。

媛子は思う。

この喜びを、なんて千華音に伝えようか。

映画よりこっちの方がずっとずっとステキだって事を。

感謝の言葉を紡ごうとする媛子の鼻先に、ヒラヒラと踊る二枚の紙片。

映画のチケットだ。

「千華音ちゃん……これ。」

媛子が驚きに目を丸くする。

どうやって手に入れたのだろう?

そんな時間があるはずもないのに。

ただ一つ媛子に判るのは。

媛子ヘの贈り物に。悪いことをして得たお金を使うはずもないということ。 

媛子は千華音の胸に顔を埋める。

今日はなんていう日だろう。

心の底から思う。本当に映画なんていらないんだなと。

例えば―――。

赤錆びたトタン屋根のバス停が。

無人駅のホーム、上り階段の踊り場の陰が。

払暁の児童公園のベンチが。

深夜のコインランドリーが。

いつだって何処だって二人だけの劇場になる。

身体と気持ちが揃っているんだから。

そして、二人は夜空を見上げる。

東京よりはずっと高く澄んでいる星空が、少しだけ二人に故郷を思い起こさせる。

杜束島のニュースは何一つ伝わってこない。

滅びはもう見えない形で始まっているのか。

もしかしたら伝承は真実ではないのか?

しかし、一つだけ二人で決めていることがある。

千華音の傷が治ったら二人で島に戻ろうと。

何が待ち受けているかは判らない。

もしかしたら、無惨な結末を迎えるかも知れない。

でも、このまま逃げて回っていても、島から出ていった事にならないから。

だから、どんな形でもいいからきちんと終わらせようと。

例え未来は見えなくても。

一秒後に終わってしまっても。

絶対に後悔だけはしない。

二人で殺し合いなんかするよりずっといい。

だから―――。

媛子がポツリと口を開く。

「千華音ちゃん。」

「何?」

しかし、媛子はなかなか言葉を紡ごうとはしない。

「……やっぱり、無理だよね。」

千華音が目を丸くする。

あまりに突然の呟きに。

「無理って?」

千華音の顔に小動物の如き、無垢な驚きの色が浮かぶ。

しかし、それも一瞬―――。

千華音はすぐに気付いて、媛子に『乗って』きてくれた。

アイドル映画のクライマックス。

相手のために離れていこうとする相手を、懸命に引き留める告白のシーンを、二人で『演じて』見せるのだ。

オールマイティな千華音はすぐに、コツを呑み込んで媛子に合わせてくれるようになったのだ。

二人の役を取り替えてみたり、別のシュチュエーションを絡めてアレンジしてみたり。

二人だけのささやかな楽しみだ。

「千華音ちゃんは、翼のある人だよ。

どこにだって行ける。なんだって掴める。誰とだって一緒になれる。」

「……媛子。」

「私さえ、いなかったら。」

「……媛子、あのね。」

媛子が掌を掲げ、千華音の言葉を遮る。

「お願いだから、言わせて。

これが―――最後だから。」

「千華音ちゃんが優しいから、とっても優しいから私、嬉しくて簡単に忘れちゃうんだ……私が……。」

媛子は言葉を詰まらせる。

「女の子だって事。」

「……。」

「知り合いになれただけで、嬉しかった。

友達になれて、天にも昇る心地になれた。

ベットの中で毎晩神様に祈ってた、ずっとこのまま変わらないでいさせて下さい。私から離れていかないようにして下さい。」

「……。」

「……でも、お願いは叶わなかった。

私の方が、変わっちゃったから。

いつまでも、友達のままでいられる訳ないんだ。他の誰にも渡せないんだって気付いちゃったから。」

「……。」

「だから無理……なんだよ。」

媛子は俯いてしまう。

「どうして?」

千華音がついに言葉を返す。

「だって……私は……。」

「誰かとか、翼とか、そんなもの無くしたからってどうだというの? 

あなたに比べたら……。」

「駄目だよ。そんなこと言っちゃ……。

千華音ちゃんは……なんだって出来るのに。」

媛子が俯いて視線を逸らす。

千華音の掌が媛子の頬を包み、振り向かせる。

「あのね、媛子。」

「……。」 

「もし、私に翼があるのなら。

それはあなただけを追いかけていくためにあるの。

高く飛ぶのは一秒でも速く、あなたを見つけるため。

風に逆らって羽ばたくのは、あなたのところへ真っ直ぐにたどり着くため。

翼が白いのはあなたの色に染めて欲しいから。」

「……。」

「私が『千華音』を何遍やり直せても、私は変わらない。

私は『媛子』と必ず出会うわ。 

あなたを愛し。あなたを求めるの。

何百何千何万回引き裂かれても。

例えそこが地獄の底だって、何度焼き尽くされたって、私は諦めない。

何度だって私は飛び立つわ。何度でも。」

「……。」

「いつどこでどんな私でも。

それだけは、変わらないわ。

永遠にあなたの『千華音』だわ。」

「千華音ちゃん……。」

「小さくて、不器用で、引っ込み思案で。

自信なさげに俯いていたって。

女の子のあなたでも……好き。」

「紅茶色の髪。紫水晶色の瞳。桜貝みたいな唇。細い腰に薄い胸。舌足らずであまやかな声。何もかもが、私の掛け替えのない宝物だわ。」

「ただあなたがあなたであるだけでいい。他に何が必要だというの?」

映画から借りた台詞の筈なのに千華音と媛子の胸の中に沸々と熱いものがわき上がってくるのが判る。

他の誰かの台詞であろうと、込めた想いは二人にとって紛れもない真実だから。

熱い眼差しを交わし会う二人。

あとは、ラストシーンだけだ。

映画のクライマックス、ヒロインたちはライブを通じて想いを伝えあった。

最高の形でのコミニュケーション。

そして……二人の『最高』は―――。

何度目だろう。

こんな風に互いに唇を求め合うのは。

一度目は、思わず二人とも目を開けてしまった。

二度目は、漫画みたいに歯をぶつけてしまった。

突然の風で靡いた髪に邪魔されてしまったこともあった。

結局―――。

『二人でするあたりまえのキス』は未だに挑戦中なのだ。

もう笑うしかない。

どうして私たちは、普通のキス一つできないんだろう?

お互いがお互いをこんなに―――こんなにも、大好きなのに。

まるで運命に試されているみたいに。

それは決して楽な事じゃない。

その代わりに捨てていくものだって沢山ある。

先の保証なんて誰もしてくれはしない。

でも、だからこそ。

こんなにも尊く、愛おしいんだ。

指を絡め、肌を重ねて、吐息を感じる零の距離が……。

さあ―――。

今度こそ成功するのか?

また上手く行かないのか?

それは―――。

二人にとってはどっちでも同じことだ。

過ぎ去った昨日を嘆くより。

来るあてのない明日を愁うより。

待ち受けているであろう幾千のリアルより、尊いものが今ここに確かにあるのだから。

もう『お付き合い』をする必要は無いんだ。

これからはずっと二人のだけの時間。

最後の最後までしっかりと繋いだ手を離さずに行こう。

その先の未来を目指して。

そして―――。

いくら求め合っても埋まらないほどに。

何一つほしがる必要など無いほどに。

二人は二人でありつづけるのだ。

いつまでも。

日より眩い月に照らされ、

二人は。

(終)